1.少女と猫③
「夏雄、入るぞ」父が仕事から帰ってきて、部屋にやって来た。いつもノックと同時に扉を開けるから、ノックの意味がまるでない。
「なに?」
いつものようにベッドに横たわり、スマホを触りながらナツは返事をした。アキと学校祭の動画について、意見をぶつけ合っている最中だった。
「明日から夏休みだったよな?」
「あぁ、うん。そうだけど」
「来週の月曜から一週間、広島へ出張になった」
「え? 広島?」
ナツはスマホから目を離し、父の顔を見た。父がこくりと頷いている。
「あぁ。就職セミナーの関係でな。だから、来週いっぱい、飯が作れない。札幌のばあちゃんのとこへでも、行くか? まぁ、夏雄が自分で作ってもいいんだがな」
「あー。うん。どうしようかな」
ナツは曖昧に返事をしながら、ゆっくりと身体を起こした。祖母のとこに行っても退屈だ。かと言って、自分で三食分の食事を用意するのも、面倒だった。
ナツは父子家庭だった。
二年前、中学校の卒業式を目前に、母を交通事故で亡くした。仕事の帰り、雪道のカーブで車がスリップしたらしい。単独の事故だった。
自分の生活が緞帳(どんちょう)を切ったように、一変した。まるで、ナツ自身が、悲劇のヒーローになったように。
母の葬式が終わって、落ち着いた後、それまで深夜残業も厭(いと)わないような働き方をしていた父は、突然、定時で帰ってくるようになった。
午後六時には家のキッチンにぎこちなく立っている父を見て、ナツは最初、戸惑った。
父も母もナツが小さい時から、仕事で家にいることはほとんどなかったし、中学校に上がる頃には一人でご飯も作れた。だから、誰かと一緒に過ごす時間が長いというのは、なんだか背中がもどかしくて、視線を向けるところに戸惑って、リビングが窮屈だった。
「別に、一人でも大丈夫だよ。もう子供じゃないんだし」
「いや、もう決めたことだ。母さんの分までお前をきちんと育てる。お前との契約みたいなもんだ。そうさせてくれ。頼む」
その時、父はナツに深々と頭を下げていた。そんな父を見るのは、初めてだったから、更に戸惑った。
「わ、わかったよ」
それからしばらくして、父とナツの生活に微妙な変化が訪れた。父が節約を意識し始めたのだ。
「もしかして、生活、きついの?」
「お前が心配するようなことではない」
少し煮詰めすぎて黒ずんでしまったかぼちゃの煮つけを、口の中でもそもそと転がしながら、ナツは父を見つめた。
父の眉間には皺が寄っていた。
かぼちゃの焦げたところが舌にピリピリと刺激を与えていた。奥歯で噛むと、甘すぎるかぼちゃのかけらが口全体に広がった。砂糖の入れすぎだ。自分で作った方がよっぽど美味しいとナツは心の中で思った。
高校に入ってからわかったことが一つあった。父は、ナツのせいで会社での昇進を諦めたのだった。
母を亡くした後、確実に定時で帰れるよう会社に頼み込んだらしい。ばりばりの営業マンだったけど、残業がほぼない人事部に異動した。そのせいで残業代が出なくなったばかりか、通常の給与やボーナスまで下げられたらしいのだ。
会社は、本当に困っている人には手を差し伸べてくれないのだ。それが社会の厳しさってやつなんだ。
ならば、とナツは考えていた。
そんな大人がいる場所になんて、絶対に行きたくない。そんな社会の歯車に、絶対に組み込まれたくない。
「なぁ、父さん」
ナツは仕事で疲れた様子の父を見つめた。父は肩をぐるぐると回している。時折、ぽきぽきと骨の鳴る音が聞こえた。耳の上には白髪が多かった。急に歳をとったなとナツは感じていた。もうすぐ五十歳だ。無理もない。
「父さんはなんで働くの?」
「なんだ、藪から棒に」
「……いや。やっぱり、いい」
ナツは肩を落とし、俯いた。手元でスマホが震える。アキだろうか。ハルだろうか。
そういえば、ハルの住んでるとこって、広島から近いんだっけ。
「まぁ、お土産、何が良いか考えといてくれよな」
父はポツリと呟き、ポリポリと頭を掻きながら部屋を出ていこうとした。
「父さん、曲島(くましま)って知ってる?」
「話がコロコロ変わる奴だな」父が足を止め、苦笑する。「曲島って、四国にある島のことか?」
「うん。広島から近い?」
「父さん、地理に詳しいわけじゃないからな。まぁ、近いっちゃ近いと思うが。そいつで検索したらどうだ?」
父が顎でナツのスマホを差す。確かにこれで検索した方が早いとナツは思った。
ぱたんと扉を閉め、父が部屋から出ていった。
ハルに会えるチャンスじゃないか?
父が広島へ行くと聞いて、ふとそう思った。ハルと直接、会って話をしてみたい。
ナツはベッドから飛び下り、机の引き出しから自分の預金通帳を取り出した。
仙田夏雄(せんだなつお)と書かれた表紙をめくり、残額を確認する。これまでに貰ったお年玉やお小遣いを貯め込んでいた。どうせ今すぐ使うあてもない。これを使えば、自分一人分の飛行機代くらいはありそうだった。
でも、泊まる場所は?
ナツはスマホで曲島と検索する。
瀬戸内海の地図が表示される。岡山県と香川県の間に、曲島はあった。
行き方を調べてみると、曲島は、岡山県と香川県の港からフェリーが出ているらしい。広島からだと、鉄道を使って岡山駅まで移動だ。
突然、自分も広島へ行くと言ったら、父は目を丸くするだろう。
でも、ハルはきっと喜ぶ。
ナツはなんとなく確信していた。ハルも自分に会いたがっているはずだ、と。
ナツはため息をついて、預金通帳を引き出しにしまった。こんな額じゃあ、飛行機代はなんとか払えても、泊まるお金が全然足りない。
父にお願いするか。そんな考えが頭によぎって、ナツは頭を振った。
スマホの機種代だってまだ払っていない。この貯金額じゃ、そのお金だって、ちょっと足りないのだ。不足分は自分で稼がなくてはならない。しかも、バイトすらまだ決まっていないのに。
広島なんて、行っている時間もお金もあるはずがなかった。
こんなことなら、無駄にいい機種を買うんじゃなかった。ナツは奥歯を噛み締めながら後悔した。
机の上に投げ出していた無駄に高価なスマホが震える。ハルだった。
『ナツは夏休み、何するの?』
『特に決めてない。アルバイトでもしようかなって』
ハルに会いたいという衝動をなんとか抑えながら、ナツは返信した。
『ちょうど良かった。今ね、わたしの家で、アルバイト募集しているの。時給千五百円。一日八時間。期間は二週間。交通費と宿泊費も支給するんだけど、勤務時間長いから、全然、応募がないって、お父さんが困ってるんだ。もし良かったら、ナツ、どう?』
突然のメッセージにナツは思わず飛びついた。勢いあまって指先が滑り、スマホを床に落としてしまった。拾い上げて、もう一度、ハルのメッセージを見る。
時給千五百円で、交通費も宿泊費も支給。こんな好待遇のアルバイト、どこを探したってない。
一瞬、どう反応していいかわからなかった。興奮と、嬉しさと、驚きで頭の中がお祭り騒ぎになっている。祭りばやしさえ、聞こえてきそうだ。
『遠くから来てもらうから、ナツには住み込みで働くことになるんだけど……。なんて、北海道から来るなんて、遠すぎるよね』
ハルのメッセージとともに、舌をぺろりと出した女の子のスタンプが一緒に送られてきていた。
『何言ってるんだろね、わたし』
ナツは全身が痺れる感覚を覚えた。
青天の霹靂とは、まさにこの場面で使うのか!
こんな偶然、迷っている時間などない。正確な給料の計算はしていないけど、スマホの機種代、たぶん余裕で払える。
ナツは部屋を飛び出し、一階のリビングでくつろぐ父のもとへ向かった。
「父さん! 一生のお願いだ!」
ほとんど階段を転げ落ちそうになりながら一階へ降りてくるナツを見て、父はソファの上で目を丸くしていた。
ハルといると居心地が良さそうとか、彼女にしたいとか、そういうわけではない。
ただ、この窮屈な、不自由な日常から足を踏み出してみたかったのだ。ハルと、この窮屈な世界について、語り合って、気持ちを共有したい。ただそれだけだった。
ナツはそう思っていた。今は。
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