1.少女と猫②
「……ツ。おい、聞いてんのか? ナツ」
右手のスマホ画面を睨んでいると、アキに肩を小突かれた。
「え?」
ナツは顔を上げた。深緑に覆われた木々の隙間から、太陽の日差しが直接、目に突き刺さる。ナツは思わず手をかざした。
途端に、学校の喧騒に包まれる。生徒がおしゃべりする声。廊下を走る足音。机と床がこすれる音。いつもの学校の音より、それらが余計に多い気がした。今日は学校祭の最終日だったことを思い出した。
夏真っ盛りの暑さに、ナツの額と脇の下には汗がにじんでいた。ワイシャツの裾をだらしなくスラックスの外に出していたナツは、少し高い芝生のブロック塀に腰かけていた。左手に食べかけの焼きそばパンが握られていた。
目の前でアキが牛乳パックに突き刺さったストローをくわえている。ナチュラルに盛られた茶髪が、柔らかな風に踊っていた。アキの瞳は、薄いピンク色の眼鏡の奥で、ナツの手の平を見下ろしていた。身だしなみは、ナツよりも軽かった。
二人の前を、いろんな小物を運ぶ男子、うちわをあおいで会話をする女子、寄り添いながら歩くカップルたちが通り過ぎていく。ワイシャツとセーラー服が忙しなく交差していた。
「だ・か・ら。スマホからでも、動画投稿ができるんだって。これならめんどくさがり屋で何も行動しない口だけ男のナツでも、楽にユーチューバーになれるぞ」
「え? まじ? そうか。おれも本格的に動画作成、始めてみようかな」
ナツは適当な答えをアキに投げかける。それを見透かしたかのように、アキは肩をすくめる。
「でもさ、お前。この前も同じこと言ってなかった? パソコンでやるって」アキが呆れた口調になる。「全く。ナツには熱意が感じられないんだよ。将来を語る熱意がさ。スマホに機種変更したせいで、更に自由が板についてきてないか?」
「熱意。将来。自由、か」ナツはため息をついた。「なんか考えるのが、めんどくさいな。学校に行ってお金かけて知識を得るより、さっさと会社入ってお金もらってスキル磨いた方が良くない?」
「お前みたいな適当人間、どこの会社が雇ってくれるんだよ」
アキが苦笑いを噛み締め、牛乳をずるずると音が鳴るまで飲み干した。
ナツは焼きそばパンを口に運んだ。夏の日差しを浴びたそれは、電子レンジで温めすぎたように熱々だった。舌の上でぽろぽろと麺とパンが崩れ落ちる。
「よぉ、ナーツ。ようやくスマホにしたんだって?」
頭の上からからかうような声が降ってきた。ナツは口を膨らせたまま首を曲げて、目線を上げる。すぐそばの窓から身を乗り出しているのは、同じクラスの吉田浩介(よしだこうすけ)だ。
「お前もようやく、時代に追いついたな」
「……アキと同じこと、言うなよ」
ナツはパンをようやく喉の奥に突っ込み、うんざりしながら浩介を睨んだ。
「お、そろそろ時間だ」
アキがスマホを見ながら、そわそわしはじめた。
「新作、発表するんだって?」
ナツは時間を気にするアキを見た。アキはイベントで動画を公開する予定だった。
「あぁ。今日の動画はまじすげーぞ。俺の高校生活の集大成が詰まってる。じゃあ、準備があるから、行くわ」
アキは駆け足で、体育館の方へ向かった。ナツはその背中を見送った。
午後零時二十五分。動画の公開は一時ちょうどだった。
「……なんか最近さ。つまらないんだよな。あいつの動画。うまく言えねーけど。狭苦しいって言うかさ」
アキの姿が見えなくなると、誰に聞かせるわけでもなく、浩介が呟いた。
「そうか? おれは面白いと思うけど」ナツはスマホを操作しながら、浩介に反論する。「つーか、浩介。お前の動画こそ、つまんねーぞ。見る人に媚を売ってるのが見え見え。センスがねぇ。だから登録者数が増えねーんだぞ」
「うるせーっての。センスがないんじゃないんだわ。センシティブなの。俺は」浩介が笑いながら窓からジャンプして、ナツの横に着地する。「俺ってば、結構、細かいからさ。最近のアキの動画見てると、いつも同じ感じがしてよ。目新しいものが無いっていうかさ。ナツは単細胞だからな。変わらないものが好きなんだろ」
「何言ってんだか……」
ナツは遠い目で浩介の顔を見た。ナツには最近のアキの動画が同じとは思えなかった。いつも通りキレもあるし、最初の引き込みも秀逸だった。
手の中のスマホが震える。タップすると、画面にメッセージが表示された。
『昨日送ってもらった動画、見たよ! 相変わらず、面白かったー。アキくんって、やっぱり、すごいんだね!』
あれから毎日、ナツは一之瀬心晴――ハルとラインでやり取りをしていた。
ハルは今、ナツがいる北海道を離れ、四国の瀬戸内海に浮かぶ曲島(くましま)という小さな離島に、家族で住んでいるらしかった。ハルの父が元々、四国の出身で、脱サラしてお店を経営しているという情報までは得ることができた。
『でしょ? ハルならわかってくれると思ってたよ』
自分とハルは似ている。
やり取りをしながら、なんとなくナツは思い出していた。
うまく言えないけど、好きなものとか、感受性とか。月並みな言葉で言えば、インスピレーション。
そう。アキの動画は面白いんだ。
だからこそ、それを共有できるハルとのやり取りも、すごく楽しかった。
「おい、ナーツ。アキの動画、身に行くんだろ? そろそろ行かないと、場所が取れないぞ。って、誰とラインしてんだよ。もしかして、彼女?」
「……違うよ」
ナツはスマホを慌ててスラックスのポケットに突っ込み、立ち上がった。
浩介と一緒に体育館へ向かう。アキの集大成を見るために。
薄暗い体育館には、スクリーンが用意されていた。
既に、結構な人数の生徒が集まっていた。体育館の中は夏の熱気と生徒の体温でむっとしてた。何しろアキは、この高校の中では有名で人気のあるユーチューバーだ。恐らく、他校からも生徒がやって来ている。その証拠に、色が違う制服を身に付けた生徒が混じっていた。
ステージ上の掲げられた横断幕には、大きな字でそう書かれていた。
恐らく、動画のタイトルだ。
「すっげー人。もっと早く来れば良かったな」
浩介が視線を迷わせている。「お、いたいた」と浩介は呟きながら、人混みをかき分け、誰かの元に向かう。たぶん、彼女と一緒に見るだろう。
ナツは人があまりいなくて、人の頭が見えない場所を探した。結構後ろの方だったけど、スクリーンはなんとか見える。
午後一時になった。
照明が、ゆっくりと落ちていく。
どこからともなく、耳をくすぐるような音楽が聞こえてきた。最初は、なんとなく聞こえる程度の音だった。徐々に大きくなっていき、やがて体育館のざわめきをすくい上げて、薄暗い闇の中を包み込む。感情を揺さぶるような、電子音。
ステージの真っ白なスクリーンに、何かが映し出される。
……星。宇宙だ。
ナツは思った。そして、
『イノベーション』
横断幕と同じタイトルの大きな文字が、画面中央にフェードインしてきた。
どこからともなく、低い声が耳に響く。声のトーンはいつもと違うが、間違いなくアキの声だ。
――時代はめまぐるしく変わる。俺たちは、こんな時代に生きているのだ。
画面が焼けるような白色に輝く。ナツは長い瞬きをした。再びまぶたを開くと、どこかの大都会の風景。ビル群。流れる雲。夕焼け。夜景。雨が降る。雪が吹きすさぶ。流れるように時間が、季節が切り替わる。
最初の演出で、すごいと思った。
かなり時間をかけて作ったことが、画面越しに伝わった。アニメーション、CG、風景写真。それらを惜しみなく駆使して、動画が構成されていた。
常に新しい情報を取り入れて、自分の血肉としている。それがアキだ。時代に取り残されないように、ただひたすらに、努力を積み重ねている。
自分とは真逆だ。ナツは思った。
自分のやりたいことは何かと問われると、ナツは途端に思考が停止してしまう。いっそのこと、敷かれたレールの通りに生きて、何も考えずに暮らしていきたい。そんなことも考えていた。
――でも、そんなふうに適当に考える時代は、既に終わったのだ。
ナツは息を飲んだ。動画から、アキのメッセージが響く。ナツの考えを見透かしているように、動画が進む。
――時代は、平成から令和に切り替わる。
去年の四月、高校二年生になった時だ。新しい元号をテレビで見た時、ナツは胃の奥がたぎるように熱くなったのを覚えている。令と和。やけに革新的な漢字を選んだなと震え上がった。元は万葉集という古典らしいけど、ナツには古典と言うより、新時代の中で生まれた言葉に思えた。
その時、ナツは感じた。日本はどうやら、革新の時代になったということに。時代の移り変わりを体験できたことは、幸せであり、不幸なのかもしれなかった。
ちょっと前まで、平成生まれということだけで、若者はちやほやされていたはずだった。スマホを持っていないだけで、昭和世代と揶揄されるような時代すら、既に遠のいていたのだ。
今度はアニメーションの動画になった。最近はやっている、ボカロ系ミュージックのようなもの。これも、アキの自作だろう。
――不変からの脱却。
目まぐるしいアニメーションと共に、アキの言葉が紡がれる。偉い政治家がこの前、テレビで同じことを言っていたのを思い出した。
ナツはこぶしを強く握り締めた。
将来の夢はユーチューバーと、心の中で密かに思っていた時期があった。
アキを見ていると、そんな夢は公園の砂を手ですくうようにこぼれて、消えていく。自分はアキにはなれない。
何か行動すれば変わると思っているのに、世の中に吸い込まれて、結局、流されるまま、いつも通り同じ場所で雨に打たれている。太陽に焦がされて、季節に流され、息をしている。
動画が再び、宇宙の映像に切り替わる。まるで生まれたての宇宙のように。大きな光輝く星の周りに、小さな星が点々と回っていた。
ナツは将来のもやもやが、コーヒーの中にミルクを垂らしたように、胸の中で回転し始めるのを感じた。
心臓がギリギリと、喉の奥から飛び出てくるようだった。狭い食道を無理やりこじ開けるように。ひどく苦しかった。
アキへ嫉妬しているわけではない。羨ましいのだ。
なんでもできるから?
ついに彼女ができそうだから?
違う。時代に追いついたんじゃない。自分は時代に振り回されている、とナツは感じた。
芯がないんだ。自分が中心になるような。アキみたいにできる奴は、心の中に芯を持っていて、自由に操れる。できない奴は自分すら操れない。不自由なんだ。
あぁ、そうか。だからなのか。ナツは思った。
アキの動画が終わる。アキの構築した世界が、静かに幕を閉じた。拍手が洪水のように体育館を埋め尽くした。ナツも気づいたら、手が勝手に動いていた。
「今日の動画、映像はすげぇ綺麗だなって思ったけど、俺にはイマイチ内容がわかんなかったわ」
体育館から出るときに、彼女と手をつないだ浩介が呟いていたけど、ナツはそれどころじゃなかった。心臓が熱を持っている。早く出せと言わんばかりに。
震える指でポケットからスマホを取り出し、アキのチャンネルを開く。やっぱり、とナツは思った。今見た動画が既にアップされていた。同時公開だったのだろう。
『今日の動画も、前衛的』
すぐさまナツはアキのイノベーションのリンクを貼り付けて、ハルへメッセージを送信した。
すぐに既読になった。
『新作、ありがとう。後で見てみるね』
返信もすぐに来た。
『いいなー。学校祭』
『ハルもあるんじゃないの? もう終わったの?』ナツが質問する。
『うん。終わったよ』やや遅れてハルから返信が届く。『高校三年生、最後の夏が終わったって感じ』
『この時期って、なんだか、エモい感じになるよな』
『そうだね笑』
この憧れや喜び、不満や不安。意味はよくわからないけど、虚栄心。これから訪れる未来への創造力や終わってしまった過去への振り返り。その全てを誰かと分かち合って、自分の立ち位置を確認したかったのかもしれなかった。
アキの集大成を見て、ナツは確信した。
だから、自分はあの時、ハルに連絡したのだ。ここではない誰かと、つながりたい。自分と同じ目線の、誰かの基準が欲しかったから。
ハルに会いたい、と強く思った。この感動を直接、会って、語り合いたい。
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