脇の下でピピと電子音が鳴る。
体温計を取り出す。36.6度。平熱だ。
1日でなんとか熱が下がったことに安堵した小早川(こばやかわ)紗希(さき)は、テレビのニュースを見ながら、朝食のパンを頬張った。マーマレードジャムの酸味が口いっぱいに広がる。
ニュースでは同一労働同一賃金の施行について、問題となる例と問題とならない例について解説していた。首相の発言に切り替わる。
「非正規雇用での働き方を改善し、女性や若者などの多様な働き方の選択を広げて――」
リモコンでテレビを消す。この話は耳が痛くなるくらい聞いていた。パンを飲み込み、身支度をして、いつもどおり会社へ向かう。
今日の日差しは、柔らかかった。体調が元に戻ったこともそう感じさせるのかもしれない。息を吸い込むと、冷たい水を飲んだ時のような清涼感が肺に満たされていく。
紗希の家から会社までの道のりには、桜並木がある。北海道の桜開花はまだ先だったが、今年は暖冬のため、例年より早いとニュースで言っていた。
今年の桜は、綺麗に見えるだろうか。
膨らんだ蕾を見上げながら、紗希はぼんやりと考えた。大学の研究に忙殺されたり、大学院を辞めたり、自宅療養していたり、ここ数年は目まぐるしく生活が変化していた。景色の変化を追っている余裕なんて全然なかったことを思い出した。
会社に到着し、いつものように自分の席に座る。朝のコーヒーでも淹れようと、席を立とうとしたタイミングでデスクの電話が鳴り響いた。
「おはようございます……」
左耳に当てた受話器の奥から、擦れた声が聞こえてきた。紗希は「日下部(くさかべ)さん?」と尋ねる。
「そ……です」
声が小さすぎて聞き取れないが、日下部まどかだ。声がよく聞こえなかったので、紗希は右耳を手の平で塞ぎ、左耳の音に意識を集中させる。
「す……せん。風邪を……しまいました」
風邪という単語がかろうじて聞き取れた。この感じはどうやら本当に風邪を引いてしまったのだろう。しかも、相当、辛そうだ。
「大丈夫?」紗希が心配そうな声を出す。
「……大丈夫じゃないです。今日も、休みます……」
「わかった。仕事は、嘉瀬川係長と進めておくね」
「すみませんー……」
紗希は心の中で盛大にため息をつきながら、受話器を置いた。その瞬間、今度は「小早川さん」という念仏のような声が耳に滑り込んできた。
「は、はい?!」
紗希は思わず驚いて飛び上がった。嘉瀬川係長がいつの間にか亡霊のように紗希の背後に立っていた。
「……電話」と呟きながら、嘉瀬川係長が紗希の電話を指差した。見ると、保留ボタンがチカチカと赤く点滅していた。
「電話?」
「うん。発注者から。代わってくれって」
「え? 私が、ですか?」
「うん。他に、誰もいないから」
確かに今日は紗希と嘉瀬川係長の他には誰もいなかった。課長も休暇だ。
なぜ派遣職員の私が、発注者の対応をするの?
疑問に思いながら、紗希は再び受話器を取り、保留されている通話ボタンを押した。
「お電話変わりました。小早川と申しま――」
「一体、どういうおつもりですか?」
突然、臨戦態勢だ。落ち着いた声であるが、今にも怒鳴り声の銃弾が炸裂しそうな勢いだった。
「あの……。申し訳ございません。私、新人なもので、まだ事態が呑み込めていないのですが。いかがなされましたか?」
紗希は声が喉へ詰まりそうになりながらも、なんとか謝罪の言葉を発した。
「昨日のメールの件、お返事をまだいただいていないんですけど、一体どういうつもりですか? 御社はワンデーレスポンスの対応が基本だったでしょう?」
昨日のメール。ではこの人は橘さんか。
紗希は状況を理解した。確かにこの会社は、お客様の対応は速やかに――ワンデーレスポンスを基本として掲げていた。以前、高梨さんからも口を酸っぱくして言われたのを思い出した。
「申し訳ございません。昨日から上司が不在なもので、連絡が遅れました。図面提出の件については、状況は理解いたしましたが、そのことにつきましては――」
「まぁ、図面の件はいいですよ。こちらとしては、言質が取れればそれで」
「と、言いますと?」
事態がまた呑み込めなくなった。言質? どういうこと?
「御社の強みは、納期を必ず守ることでしょ?」
この人、何を言って――。
「とにかく、早急に工程表を出し直してください、ね? 新人の小早川さん」
受話器の向こうで食器を叩きつけるような音が聞こえたかと思うと、電話が切れた。耳ざわりな音が頭の中にこだまし、いつまでも居座った。紗希は受話器を持ったまま、呆然とした。
交渉の余地もないまま、工程が縮められる前提で事が進んでいるようだ。昨日、残業してまでまどかの代わりに作り上げた工程表は無駄になった。いや、今はそういう問題じゃない。
まどかに相談するか? いや、彼女も新人みたいなものだ。
課長に電話したところで、有無を言わさず「いいからやれ」となるに決まっている。
そうだ。嘉瀬川係長。
紗希は立ち上がって、はす向かいに座る嘉瀬川係長の席を見た。が、そこには彼の姿は無かった。どこに行ったんだろうと紗希が視線を迷わせていると、自席の机の隅に黄色い付箋が貼り付けてあることに気が付いた。紗希は付箋を指でつまみ上げた。
『体調不良なので、今日は帰ります。嘉瀬川』
紗希は目を閉じて、額に手の平を添えた。
頭が痛い。帰りたい。この会社はいつから、絵に描いたようなブラック会社に変貌したんだ。
受話器を持ったまま、紗希は電話番号をプッシュした。課長へ電話をかける。コール音が耳に響く。なかなか出ない。5コール目でようやく課長のいつもの野太い声に切り替わった。
「はい。もしもし」
課長の声は少し切羽詰まったような感じがしたが、紗希も急いでいたので用件を伝える。
「お疲れ様です。小早川です。休暇中に申し訳ございません。昨日の橘さんからのメールですが……」
「あぁ、例の件ね。俺の方に橘さんから電話があったよ。今、メール返信したから、確認しといて」
それだけ言うと、佐々木課長はすぐに電話を切った。
紗希は受話器を置いてパソコンの画面を見る。メールが一件、届いていた。
『橘様。佐々木です。工期の件、委細、承知いたしました。工程表につきましては、弊社の日下部より返信いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします』
紗希の予想通り、有無を言わさない内容だった。
この会社が『お客様の対応は速やかに』という理念を掲げる以上、発注者から工程が縮めるように懇願されたら、それに従うことが必然なのだろう。この会社はそれでいいかもしれない。でも、この仕事の大部分を請け負う、昨日の下請けの人たちは、どうなるのだろう?
組織は戦略に従うと、何かの本で読んだ気がした。この戦略の中に、彼らも巻き込まれていることを承知しているのだろうか。今のこの状況は、戦略だけが先走って、組織、いや、組織の人間が置いてけぼりにされている気がした。
働く人が疲弊してまで、この理念を貫き通す必要があるものなのか。どこかで折り合いをつけるべき妥協点があるのではないだろうか。
「……どうしてみんな、こんなに急いで生きるんだろう……」
自分の大学時代の苦しさを思い出しながら、紗希は独り、呟いた。
【本日のキーワード】
#なぜ残業はなくならないのか
#納期死守
#いいからやれ
#組織は戦略に従う
#チャンドラー
【本日の参考資料】
日本の残業の状況、なぜ残業が発生するのか、電通の事件、働き方改革について簡潔に書かれた新書。日本の働き方に関する入門書みたいなものです。
この本の中に、
『22時以降は取引先とのやりとりが禁止になった旨を顧客に伝えたところ、「電通の強みは失われましたね」と言われたという』
という文章があり、ぞっとしました。まさに日本の働き方を示すような言葉です。
※『』内は引用
日本人全体としての労働時間は徐々に減っていますが、それは非正規職員も込みなので、正規職員の労働時間は横ばいで推移しています。現状、多くの企業で実施している働き方改革は、「残業を減らせ」に終始しているため、効率化を謳った単なる「労働強化」に過ぎません。
この本では、「残業リテラシー」――仕事のルールに関するリテラシー(知識や情報を有効活用できる能力)が欠如していると説いています。長時間労働を労使ともに容認してしまっていることも、残業が多い理由の一つです。
『組織は戦略に従う』と説いた人は歴史学者のチャンドラーという方です。
「企業が存続・成長していく為には、戦略と組織が適切な関係を持たなければならない。戦略は企業の環境適合の基本的な方法を示すものであり、戦略と組織が整合性を持っている事が、組織の目標達成には不可欠である。」
戦略だけが先走って、組織が追いつかなくなった時、その組織は一体どうなるのでしょうか。