言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

★009.風邪をひいても社内会議には出ろ

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 頭が痛い。二日酔いか。

 目が覚めた瞬間、小早川紗希(こばやかわ・さき)は思った。枕に顔を埋めたまま、なかなか起き上がらずにいると、身体が布団の中でぶるりと震えた。

 違う。これは……。

 紗希は毛布に包まったまま、机の引き出しから体温計を取り出し、脇の下に挟んだ。音が鳴る。見ると、37.8度と表示されていた。

 久々の風邪だろうか。ぐらりと視界がぼやけた。熱があるとわかった瞬間に、身体全体が鉛のように重く感じるのは、何故なんだろう。脳が休めと指令を送っているのかもしれない。

 紗希はスマホで会社のスケジュールを確認した。10時から、社内会議と記されていた。

 そうだ。今日は確か、下請け会社との打ち合わせがあるから絶対に出ろと、佐々木課長が言っていた。休むわけにはいかない。

 ふらついた足取りで、冷蔵庫を開ける。フルーツヨーグルトがあった。昨日の飲み会の帰り、コンビニで買っておいたものだった。食欲は無かったが、無理矢理、胃におさめる。食べ終わると、頭痛薬を水と一緒に飲み込み、紗希は着替えた。

 家を出ると、コンクリートに反射した太陽の光が目に飛び込んできて、めまいがした。なんとか足を踏ん張って、歩き始める。4月にしては暑すぎる日差しが、紗希の頭のてっぺんを焼くように照らす。

 会社に着いたのは、始業時間ギリギリだった。

 自分の席に座ると、隣の日下部(くさかべ)まどかが出社していないことに気が付いた。課長に聞いてみると、

「体調不良だ」と短く言った。

「え? 休みですか?」

 絶対、二日酔いだ。紗希は心の中で毒づいたが、昨日の夜、一緒に遅くまで飲み会をしていたことは言わなかった。

「ちょっとくらいの熱なら、頭痛薬飲んででも社内会議には出ろと言ったが、無理と言われた。ったく、最近の若者は。根性がまるでない。俺は若い頃なんて、栄養ドリンクさえ飲めば、24時間はフル稼働出来たぞ」

 課長が忌々しげにまどかへの愚痴を吐き捨てた後、自分の武勇伝を自慢げに語った。紗希はまた、頭が痛くなってきた。課長の言葉で、薬が溶けてなくなったような気がした。

「仕方がない。小早川だけでいい。下請けとの打ち合わせの時間だ。おい、嘉瀬川!」

 課長の言葉に、「は、はい」とびくびくしながら立ち上がる影があった。

 係長の嘉瀬川智也(かせがわ・ともや)。この春から出向に行った高梨の先輩にあたる。上背はあるが、身体が細い。顔色がいつも悪いように見え、メガネもフレームがずれているので、なんだか頼りないイメージをいつも紗希は感じていた。

 大丈夫かな、この人……。この職場を見ていると、高梨さんはやっぱり、仕事ができたんだなとしみじみ思う。

 課長、嘉瀬川、紗希の3人は社内の会議室に移動した。会議室には既に、下請け会社のメンバーが揃っていた。相手方は2人の男性だけだった。名刺を受け取ったが、派遣職員の紗希は名刺を持っていなかったので、頭を下げて挨拶しただけだった。

 紗希たちは彼らの正面に向かい合って座った。武田と稲葉という苗字だった。名刺と顔を見比べながら紗希は名前を覚えようとするが、頭がぼーっとする。名前の文字列は目に入ってくるが、脳にたどりついても記憶に変換されず、風邪の熱で蒸発していくように消え去っていく。

 ダメだ。今は名前ではなく、特徴をとらえよう。紗希はそう思い、じっと目を凝らした。

「この業務の納期は、夏までだ」課長が口火を切った。「老人ホームの庭園設計だ。チェック含めて、4か月で図面を上げなくてはならない」

「4か月、ですか」武田が瞬きをする。この人は男の人の割にまつ毛が長かった。「正直言って、きついです。まだレイアウトすら決まっていないのに」

「レイアウトは我々で検討する。1か月……、ゴールデンウィーク明けにはそちらに渡すことができるだろう」

 課長が淡々と話をしているが、紗希にとっては、何もかもが初めて聞く内容だった。夏までに設計? 1か月でレイアウト検討? 一体誰がやるの?

「本当に、ゴールデンウィーク明けには、レイアウト検討結果、いただけますか?」

 稲葉が眉を寄せながら尋ねてくる。この人は眉毛が丸くて濃かった。

 課長はゆっくりと頷く。「約束する」

「納期がきついのは、毎年のことですので、なんとか対応いたしますけども……。これ以上、本当に、納期が早まることはありませんよね?」

 眉毛の濃い稲葉が念を押したところで、業務の詳細な話に入った。紗希は聞きなれない単語に右往左往しつつ、ペンを持ちながら、重要そうな事項をひたすらメモした。

 下請け会社へ無理難題を押し付けるだけの儀式みたいな社内会議を終え、執務室に戻ってくると、課長は慌ただしく席の周りを片付け始めた。

「日下部に明日、今の会議の詳細を伝えてくれ。あと、作業分担表も作っておいてくれと」課長が紗希に伝えた。「嘉瀬川、今日の打ち合わせのメモ、頼むぞ。じゃ、俺はこれから明日いっぱいまで、用事があってな。午後から休みを取る」

 矢継ぎ早に言葉を並べ、急いだ様子で会社を出ていった。課長がいなくなると、嘉瀬川はやる気が無さそうにキーボードを叩き始めた。執務室はそれ以外、何の音もしなくなった。

 紗希はさっきの会議で課長が配っていたスケジュール表をもう一度確認する。素人目に見ても、この工程はきついと感じた。どうしてこんな仕事を引き受けてしまうのだろうか。どうして何の根拠もなしに、みんな「出来ます」なんて言ってしまうのだろうか。一度でも無理して実績を作ってしまうと、その後も出来ること前提で目標が組まれ、そこから負の連鎖が始まると言うのに。

 紗希は課長が勝手に組み上げたスケジュールと作業項目を睨みながら、最適の作業分担を考え始める。これは正社員の仕事と紗希は思っていたが、明日、まどかと相談しながら、すぐにでも作業を進めていかなければ、到底、期日までに終わらない。

 まどかを補助することが私の役目だ。

 そう思いながら、働かない頭に鞭を入れ、パズルを解くように効率的な作業配分を割り振っていく。

 作業が一段落し、紗希は大きく伸びをした。壁にかかった時計が目に入る。いつの間にか定時を過ぎ、18時を回っていた。嘉瀬川の姿も消えていた。今日のメモは作ったのだろうか。

 設計デザイン課はもう誰もいなかった。空調の音がやけに耳に届く。

 くしゃみが出そうになり、ポケットをまさぐってティッシュを取り出した。鼻を噛み、もう一度パソコンに目を向けると、メールが一通届いていた。

 どうやら、紗希たちの会社に庭園の設計を依頼した発注者のようだった。課長がccで係長やまどか、紗希にもメールを送っていたので、そのまま返信したのだろう。

『いつもお世話になっております。双葉老人ホームの橘です。御社へ委託した庭園の設計業務についてですが、諸事情により、老人ホームの工事着工が早まりましたため、図面の提出についても時期を早めたいと考えております。つきましては――』

 なんだ、このメール……。

 胸がざわついた。

 ただでさえ工程がきついと下請けが泣いているのに、更に早めろと言っているのか、この人は。

 4月が始まってまだ1週間も経っていない。紗希は今年の仕事について、前途多難で不穏な空気を感じずにはいられなかった。

 

【本日のキーワード】

#風邪でも休めない

#下請けイジメ

#無理な工程なのに仕事を取る

 

【本日の参考資料】

  新型コロナウイルスは全然収束する気配を見せませんが、テレワークが難しいサービス業や飲食店などの方々はとても大変だろうことをお察しいたします。

 

 しかし、「根性論」でどうにかなる時代は終わっています。「風邪でも、絶対に休めないあなたへ。」で話題のCMも「今すぐ治したいつらい風邪に」となっています。

 この記事のように、下の世代には根性論を引き継がせないような仕事をしていきたいと私は感じています。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

38度以上でようやく会社を休む人が最多です。約40%。

このコロナで、仕事<休養の考えが浸透するといいですね。

jinzaii.or.jp

 

 

 ちょっと古い記事ですが。

「発熱した」「コロナウイルスかもしれない」

 そういう社員が出てから、一斉にテレワークに移行する。そんな会社もあります。

 どうして事後対策なのでしょうか。出る前に対策してほしいと切に思います。

 

www.yomiuri.co.jp