言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

☆008.「社会は厳しいものである」とは、誰が決めたのか。

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 4月に入ると、すっかり日が長くなった。

 高梨真一は会社の帰り道、スーパーへ行くと、つい時間が経つのも忘れて書籍コーナーを彷徨っていた。気づけば、19時を回っていた。慌てて、妻の結子に頼まれた牛乳とパンをカゴに入れていると、

「あ、太陽君のパパだー」

 突然、背中に元気な声がぶつかってきた。真一が振り返ると、指をまっすぐこちらに向けている女の子がいた。もう片方の手は、お母さんらしき女性とつながれていた。幼稚園の参観日で見かけたことがある二人だった。

「美奈(みな)ちゃん。今晩は」真一は視線を美奈ちゃんに落とし、微笑みながら頭を傾げた。

「……こんばんは」美奈ちゃんはもじもじしながら、小さい声で挨拶する。

「これから、帰宅ですか?」視線を戻しながら、真一が美奈ちゃんのお母さんに声を掛けた。

「えぇ。仕事が先ほど終わって、夕ご飯の買い物をした帰りなんです」

「大変ですね」

「もう慣れました」美奈ちゃんのお母さんは少し疲れたような顔色で笑った。

 

「美奈ちゃんのお父さん、ホントはいい企業に勤めてたんだよ」

 真一は半年くらい前、結子から聞いた美奈ちゃん一家に関する話を思い出していた。

「でも、激務でね。終電帰り、休日出勤、当たり前。結局、体を壊して、うつ病になって。会社、辞めざるを得なくなって。それから、子供を幼稚園じゃなくて、保育園に預けることにして、お母さんがフルタイムのパートで働き出したって聞いた」

 美奈ちゃんが幼稚園からいなくなることについては、お知らせにも書いてあった。そのことを真一も知っていたが、詳しい話は知らなかった。

「お母さんも、結構いい大学出てたんだって。でも、再就職しようにも、仕事辞めてから結構経ってたし、美奈ちゃんもいるし、結局、就職活動する時間もなくて、パートに落ち着いたんだって」

 ママ友が集まるとね、と結子が言いにくそうに唇を噛み締めていた。

「両親が高学歴でも、一度ドロップアウトしたら一気に転落するんだ。うちの子はそうならないようにきちんと教育しなきゃ。みんなそんな話ばっかり。塾はどうする? 習い事はどうする? 私と、お隣の辻さんの奥さんは、ただただ、黙ってそれを聞いてるだけ」

 ママ友って、残酷だよ。結子が言葉を溢すように呟いた。

「だから、行きたくないんだ。気が滅入る」

 結子は乾いた笑い声を響かせた。

 

「ママ、抱っこ」美奈ちゃんがお母さんにせがんでいた。

「ママね、お買い物袋持ってるから、抱っこはできないの。ごめんね」

 美奈ちゃんのお母さんが優しく美奈ちゃんに謝る。

「では。失礼します」

 そう言って、美奈ちゃんのお母さんはまだ4歳にならない娘の手を引いて、夜道を歩いていく。真一は、その背中を見送った。

 転落するのが恐ろしいから、自分の子だけは守る。厳しい社会に負けない力を身に付けてほしい。確かにそれは、親の誰しもが思うことだろう。真一だってそうだ。でも、本当の問題はそこじゃない。

「社会の決められたレールから落ちてはならない」という意識が、みんなの中で変わらずに循環し続けている事実こそ、この社会を厳しくさせている原因なのではないだろうか。

「社会は厳しいものである」という、誰が決めたのかもわからない幻想が、濃い霧のように支配している。その幻想はみんなの視界を遮って、自分の周りを守ることしか出来ないように思考を止めている。

 更に現状は、その意識の下に安全網がほぼないに等しい。だからみんな、必死にレールへしがみつく。しがみつけなかった人やしがみつくのに疲れた人は、自己責任となり、淘汰される。

 パートやアルバイト、派遣労働者は今も増え続けている。派遣労働法の緩和は、雇用の流動性を上げることには成功したのかもしれない。でも、それがこの社会の安全網と言うならば……。

 その網が切られた時、淘汰された人間は、どこへ向かえばいいのだろうか?

 真一はまだ冷たい夜風に体を震わせた。

 街灯が灯り出した道路を、二人の背中が遠ざかっていく。家に帰ってから、夕食を作ったり、入浴したり、いろいろやることがあるのだろう。そして、明日もまた、日常が繰り返される。

「転落しても、元のレールに戻れる世の中になればいいのにな……」

 真一は、街の人ごみの中へと紛れていった美奈ちゃんとお母さんの背中を見送りながら、独り言のように呟いた。

 

 

【本日のキーワード】

#セーフティーネット

#社会復帰が困難

#転落してはいけない

#社会は厳しいものである

 

 

【本日の参考資料】

住所不特定の労働者は、今話題になっているコロナの支援・補助を受けられません。

その人たちを救うには、一体、どうすればいいのでしょうか?

 

日本には今、約2000万人の非正規雇用者がいます。

仕事が無くなれば、当然、家賃すら払えず、住む場所を失います。

親子で車中泊を余儀なくされた家族もいます。

 

日本には真の意味でのセーフティネットがないのです。

 

www.nli-research.co.jp

 

低下する失業率と増大する非正規労働者

https://www.teikokushoin.co.jp/journals/society/pdf/201702/03_hssobl_2017_02_p05_09.pdf

 

正規雇用問題

http://www.waseda.jp/sem-fox/memb/12s/azusa/azusa.index.html