言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

★008.正社員の立つ場所は。

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 ここは牢獄か。

 紗希がようやく口をつけたグラスのビールは、少しぬるくなっていた。泡と苦みが、ついつい毒を転がしてしまった舌の上にいつまでも残り、紗希は顔をしかめた。

 紗希が連れて来られたのは、賑やかな洋風居酒屋だった。

 同期会には、主催者であり、紗希と同じ設計部の設計デザイン課に所属する日下部(くさかべ)まどか。そして、営業部の本宮成亮(もとみや・なりあき)、渡部恭一(わたべ・きょういち)の男性2人が参加していた。相崎莉緒(あいさき・りお)という女性の同期が経理部にもう1人いるらしいが、今日は用事があり、参加することが出来なかったらしい。

 今、3人は、労働組合春闘やボーナスの話で夢中だった。

 冬のボーナスが思ったより少なかった。若者に仕事を押し付けているのに、苦労の分の対価が出ていない。ベア要求は、若者がもっと声を上げるべきだ。などなど。

 紗希はまるで、鉄格子の中から、手の届かない正社員という身分を眺めているようだった。

 もし私が正社員だったとしたら、この人たちのボーナスはもっと少なくなっていたのだろうか。

 紗希は小さく頭を振った。意地の悪いことを考えてしまう自分が悲しくなった。

 すぐ横でカメラのシャッター音が聞こえたような気がして、紗希は横を向いた。まどかは紗希とテーブルの上のピザにスマホのカメラを向けていた。

「紗希は、インスタやってないの? この前、マツコ・デラックスの番組でアプリを紹介しててさ、これ凄いんだよ」

 と言いながら、まどかは無表情の紗希が写った画面をタッチした。すると、紗希の顎のラインや頬の膨らみが、自由自在に伸びたり縮んだりした。

「ほら。こうやって加工した後の写真だけ見ると、全然わかんないでしょ? コツは肌を綺麗に見せる加工は、あえてやらないんだって」とまどかが紗希に笑顔を投げかける。「これが、ナチュラル盛り」

 確かにすごいけど、これは最早、ナチュラルではない。ただの盛りだ。

 大学の学部の頃はインスタに夢中だったなぁ。紗希はぼんやりと思い出した。もう随分と写真をアップしていなかった。大学院に行ってからは、そんな余裕なんて微塵もなかった。タグ付けした人に、紗希は生死不明と思われていそうだ。

SNS、あまり好きじゃないんだよね」紗希がまどかに愛想笑いを浮かべる。本当はブログもツイッターもやってるけど。

「そうなんだ。でも、紗希は顔、悪くないし、あたしみたいに盛らなくても、ホントのナチュラルで、そこそこイイね稼げると思うんだけどなぁ」

 私はイイねより、お金を稼ぎたい。今現在の自分の価値を安売りするんじゃなくて、もっと高めていきたい。

 と紗希は思ったものの、世の中の流行りには敏感にならないと、どんどん取り残されてしまうのも事実だ。

 そういえば、とまどかが話題を変える。

「今年から同一労働同一賃金だしさ、紗希もボーナス、もらえるんじゃないの? 正社員との差、つけちゃダメなんでしょ?」

「……だと、いいけど」

 そんな簡単なことなのだろうか、と紗希は内心、疑っている。いや、疑いではなく、確信だった。昼間に見た資料では、非正規職員に対するボーナスの支給については曖昧だった。そもそも正社員と同じ仕事をしていないし、売り上げそのものに貢献していない。それこそ派遣元の契約によるとか言われて、ボーナス支給の合理性なんて、いくらでも回避できそうだった。

 もしかすると、ずっと蚊帳の外にいる紗希に、まどかは気を遣ってくれたのかもしれない。気づいたら、前に座る二人の男性陣も紗希のことを見ていて、全員の視線が集まっていた。

「小早川さんって、どこの大学出身なの?」

 紗希の目の前に座る本宮が質問してきた。

「東京にある、中央工業大学」と言葉を切り、紗希は視線を遮るようにグラスを傾けた。

「え? 東京の中央工業大学? って、東工大のことだよね?」

 目の前の同期たちは目を丸くした。

「小早川さんって、めっちゃ頭良いんだな。超有名大学じゃん」と本宮は感嘆の声で呟いた。

「まじかよ。それで派遣採用なの? 上のやつら、見る目がねぇな」と渡部は吐き捨てるように呟いた。

 それからは、紗希に対する質問コーナーのような時間だった。

 紗希はあまり喋りたくないなと思いつつも、大学院を辞めた経緯、どうして北海道へ戻ったのか、このハウスメーカーを選んだのか、言葉を選びつつ、端的に説明した。

「紗希、苦労したんだね」まどかが紗希の肩に手を置き、しんみりとしながら、まとめの言葉を放つ。「でも、一度ドロップアウトしただけで、きちんとした採用がないなんて。やっぱり日本の会社って、おかしいんだね。あたしも、さっさとこんな会社から逃げ出したい」

 そんな感じで一次会が終わり、精算となった。

「割り勘でいいよな」と渡部がレシートを見ながら、スマホの電卓で計算している。

「意義なーし」飲み会が始まった時よりも、更に元気なまどかが声を上げる。

 精算額を見て、紗希は「う」と心の中で呻き声を上げた。春はいろいろと出費が多いけど、今日の飲み会は予定外だ。いや、私の心が荒んでいるだけか。もっと、人と関わらないといけない。人と接する対価と思えば、安いものなのかもしれない。

「二次会に行く人ぉー」

 まどかが手を挙げるのを見て、男性二人も小さく手を挙げる。まどかの足元が少しふらつく。飲みすぎだ。

 同期みんなが普通に二次会へ行く様子を見て、紗希も重い足を引っ張るようにして三人の後ろ姿を追いかける。

 二次会の店は、本宮が選んでいた。「俺、いい店知ってるよ」と先頭を歩いていく。

 紗希は歩きながら、今の飲み会で同機たちが話していた内容について考えていた。

 労働組合春闘。ベア要求。給料上げろ。

 専業主婦になる。仕事したくない。

 長時間労働。そして、非正規職員の犠牲の上で成り立つ対価。

 利益が出るということは、コストを削った結果から生み出されている。コストを削る対象としてはじき出された人間には、そのうまみがこぼれてこない。

 会社の利益や自分たちの利益をどうやって盛るのか。ナチュラル盛りじゃないけど、みんな、本当の現実を加工して、見栄えだけを気にしている。

 よそはよそ。うちはうち。会社の外の話なんて、興味がない。内輪のことだけ気にして、どうにか処理しようといる。

 飲み会だけではなく、会社の1つ1つもまるで、牢獄のようだった。

 牢獄と言えば、と紗希は頭の中に、ある考えがよぎった。

 今の会社と労働者――特に非正規職員との関係は、フランス革命時の状況に似ているのではないか。

「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と、かの有名なマリー・アントワネットはこう言った。「お金がなければ稼げばいいじゃない」と自己責任論が飛び交う現代。紗希のような派遣職員は、稼ぐこと自体が大変だと言うのに。

 フランス革命は、貧民が貴族を襲撃するバスティーユ牢獄事件から始まった。

 そうだ。

 私は、貧民だ。

 さぁ、武器を持て。

 さぁ、立ち上がれ。

 この世界の不合理を、今こそ倒す時なのだ!

 と、片手に洋風の剣を持つ妄想をしたところで、紗希の目の前に透明な赤色をした美しいカクテルが運ばれてきた。まさに、ベルサイユ宮殿に咲く、一輪のバラのようだった。

「ジャックローズです。アップルブランデーをベースとした、やや強めのカクテルでございます」と、店員が説明する。

 いつの間にか二次会のおしゃれなバーに入ったことや、自分が飲み物を注文したことなど、いろいろと記憶が飛んでいた。紗希は変な妄想していた自分が恥ずかしくなって、目の前のカクテルと同じように顔を赤らめた。

 あまりに集中すると、時間だけではなく、周りの存在すべてを忘れてしまうのは、紗希の悪い癖だった。誰でも集中する時は周りが見えなくなると言うけれど、紗希はそれが顕著だった。

 カクテルの舌に残る甘酸っぱさに、紗希の頭は妙に冴えわたっていた。だけど、そのあとの同期との会話の内容は、紗希の記憶に残らなかった。二次会で既に全員が結構酔っぱらっていた。話の内容も、会社の愚痴とか合コンの予定とか、紗希の興味がそそられるものではなかった。

「小早川さんの分、俺が出すよ」

 二次会の精算する時、レジの前で財布から千円札を出そうとした紗希を、本宮が制した。

「え? いや、そんな」と紗希がうろたえているうちに、本宮は手早く自分の財布から二人分の会費を取り出して支払いを済ませた。

「……ありがとう」

 紗希は本宮の耳に届くのかわからないような小さな声で、お礼の言葉を絞り出した。

 ――お金がなければ奢ってもらえばいいじゃない。

 本当は、お金を出さなくていいと言われて安堵してしまった自分が、情けなくて、悔しかった。

  

【本日のキーワード】

#非正規職員の犠牲の上で成り立つ対価

#正社員と派遣職員

#割り勘でいいよね

#バスティーユ牢獄襲撃

#フランス革命

#パンがなければお菓子を食べればいいじゃない

 

【本日の参考資料】

 今のコロナの状況も、フランス革命時に似ている気がしました。

「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」というマリー・アントワネットの有名な言葉は、史実ではないという見解もあります。

 まぁ、真実かどうかは別として、今の日本の為政者も似たようなものですね。

「お金がなければ商品券を使えばいいじゃない」

 国民が革命を起こさないと、為政者は現実に気づくことがないのではないかと、ふと思いました。

 

「暴動か?」と総理が側近に尋ねる。

「いいえ、総理、これは暴動ではありません。革命でございます」

 

 当時のフランスも、財政難、富の集中による経済格差。歴史は繰り返すと言いますが、今の日本がまさに歴史の転換期なのでしょうか。

 もうちょっと勉強したいです。フランス革命

 ちなみに、ベルサイユのバラに詳しいわけではないです。家に漫画がありますが、読んでません。読んでみます。

 

honcierge.jp

 

www.y-history.net

 

www.furansu-kakumei.com