「なぁ、お前、結婚しねーの?」
金曜日、やや混雑した帰りの電車の中。吊革に掴まって今日のニュースをスマホで読んでいると、高梨真一の耳にそんな声が届いた。視線だけちらりと横に向けると、30代後半だろうか、真一のすぐ傍の座席に2人のサラリーマンが並んで座って会話していた。どちらもスーツ姿で、真一と同世代に見えた。
「結婚なー」手前の男が腕を組む。「独りって、気楽なんだよな。金も自由に使えるし。結婚は、昔から人生の墓場って言われてるんだろ?」
「結婚してる俺に、そんなこと言うなよ」奥に座る男が自嘲気味に笑う。「まぁ、確かに。人生の墓場って言うか、借金取りに追われてる感じだな。毎月、金が湯水のように消えていく。嫁の化粧代とか、子供の服代とか、習い事とか。毎日の晩酌が、気付いたら発泡酒になり、最近ではストロング系チューハイ1缶だけになったからな。安く酔えるやつ」
「そりゃあ、悲惨だな」
「お前みたいな奴には、独身税を設けてほしいよ。まじで生活がギリギリだ。少子化なんだから、子育て世代をもっと楽にさせないと、これからどんどん子供がいなくなるぞ」
「おいおい。俺がコツコツと、汗水流しながら貯めた金を、楽して搾取するつもりかよ。ただでさえ税金多いのに、やる気無くすだろ」
「お前の言う人生の墓場に、さっさと入ってくればいいだろ?」
「だぁから。俺は独りがいいの。それに、墓場で終わるならまだいいよ。今、70歳過ぎても働かされ続ける時代だろ? 墓場で眠ってても、叩き起こされるっつーの」
「ははは。冗談に聞こえないから、逆に笑える」
でもさ、と奥に座る男が真顔になる。
「さっきの独身税。これ、少子化対策として、いい方向に行くんじゃねーの? 独身なんて、金使わないだろう」
「まだ言ってるのか。お前、今の日本が子供少ないのって、なんでか知ってるのか? 俺たちと同じ氷河期世代が、子供作らないからなんだぞ。今の若者って、お金使わないんじゃなくて、お金がそもそも無いんだ。だから結婚しねーんだ。いや、したくても、できねーんだぞ」
「あぁ。そうか。……俺らも氷河期世代だしな。確かに、よく就職できたなって、たまに思うわ」
「たまたまなんだよ、たまたま」手前の男が語気を強める。「要するに、不平、不満が言えるほど、俺たちはいい生活してるんだよ。就職できなかった奴らなんて、自己責任で片付けられてる。フリーターを選んだのが悪いとか、いつまでも派遣でいるのが悪いだとかな。そういう奴らを、俺たちは踏んづけながら生きているんだよ」
その言葉を聞いた奥の男が沈黙する。
「お前、手取り減らしてでも、そいつらを救えるか? そんな神みたいなやつなんて、この日本にいねーだろ」
慣性力が働き、真一の身体がよろける。電車が駅のホームに到着したのだ。真一はスマホをスーツの胸ポケットにしまい込み、開いた扉から電車を降りた。
独身が悪い。派遣という人生を選んだ者が悪い。
二人の会話を盗み聞きしていた真一は、電車を降りた途端、どっと疲れが押し寄せてきた。仕事の疲れではない。この社会の息苦しさに、だった。
電車のドアが閉まり、ゆっくりと進んでいく。さっきの二人組の口は、まだ言葉を紡いでいるようだ。時折、片方が頷き、片方が手を動かしながら語り合っている。
真一も、氷河期世代だった。大学の時は東京にいたが、就職にすごく苦労した記憶がよみがえる。何十社とエントリーシートを書いては、面接を受け、いくつものお祈りメールを受け取った。思い出したくもない。
氷河期世代。お金がない。結婚できない。子供が生まれない。
発展しすぎたこの社会で表面化した問題は、たくさんの見えない問題と絡みついて、既にほどけない状態になっている。
簡単に解決できない問題が、山積みだ。
真一は大きくため息をつきながら、駅のホームを歩き始めた。
「ただいまー」
真一が玄関で靴を脱ぎ、リビングに入ると、キッチンにいる妻の結子が目を丸くした。
「はや」結子が壁に掛けられた時計を見上げる。「まだ18時だよ」
「お父さん、なんでこんなに帰ってくるの早いの? 今日はお仕事、お休み?」
おもちゃを手に持った息子の太陽が、ニコニコと笑いながら真一の足元に抱きついてきた。
「2人そろって、なんてこと言うんだよ」
真一は令和2年4月から、今、勤めている会社の関連機関へ出向していた。出向先は、これまでいた本社よりも担当する仕事の絶対量が、かなり減る予定だった。このため、ここ最近はずっと定時帰りなのだ。
「今日はカレーだよ」
「ということは、明日もカレー?」
「明日のごはん支度の手間を軽減しといたんだから、感謝しなさい」
結子が勝ち誇ったような顔をして、にやりと笑う。
「……感謝します」真一は鞄を下ろし、ネクタイをゆるめる。「陽乃(はるの)は?」
真一が尋ねた瞬間、2階から元気な明るい声が聞こえてきた。
「僕らはみんなー、生きているー♪ 生きーているから、嬉しいんだー♪」
長女の陽乃が『てのひらをたいように』を口ずさんでいる。
懐かしい歌だな。と、真一は思った。
「あ、お父さん、お帰りー」
陽乃が2階から降りてきて、階段の上から真一に笑顔で手を振ってきた。
「陽乃。来週は、小学校の入学式だろ」
「うん」
「お父さん、その日、会社は休みだからな。終わったら、昼ご飯、どっか食べに行こう」
「えー、いいのー? やったー」
陽乃ではなく、結子が嬉しそうに声を張り上げていた。
僕らはみんな、生きている。生きているから、それだけで嬉しい気持ちになれるはずなんだ。子供の未来は、大人が守らなくてはならない。
カレーの香りを胸に吸い込みながら、真一はそう思った。
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結果は……、貯金ができず、結婚できない人が更に急増しました。
そんな制度が無くても、結婚できない人が増加している日本。少子化は更に加速するでしょう。
少子化についてはいろいろ言われていますが……。
結婚できない若者の増加、生涯で生む子供の数の減少、そのいずれも原因であると感覚的に思います。
根本はやはり、経済的な理由が大きいと思うのですが……。もちろん、子育ての負担が大きいのも一因として考えられます。東京一極集中とか、核家族化とか。もっと勉強せねばと思います。
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