会社の一員になることで、この世の中はようやく、一人の人間を社会人として認める。
雪がすっかりとけ、袖を通すコートが薄くなり始めた頃、令和2年4月になった。小早川紗希の、派遣職員として、二年目の春がやってきた。
この春から、ついに同一労働同一賃金が施行される。
新年度になり、同一労働同一賃金に関する説明会が、会社で開催された。紗希を始めとする、派遣職員も対象だった。
「えー、今回の法制度のポイントといたしましては、ですね」
総務部の課長がプレゼン資料を会議室のスクリーンに映し出している。、今回の法改正のポイントを説明していた。 最近、インターネットで散々公開されていた情報だった。
紗希はそれよりも、会社が配った『新たな制度の導入』という資料に目を落としていた。
『弊社は新たに、総合職に加えて、準総合職制度を創設』
資料の内容を要約すると、準総合職は勤務地および勤務時間を限定するもので、各個の家庭状況や就業状況を勘案し、所属部長が認めた者を転換の対象とするようだ。ただし、賃金は通常の総合職の80%程度を基本。
なんだろう、これ。
紗希は胃の中が違和感で満たされ、ずしりと重たくなった。
同一労働同一賃金制度の導入に従い、メンバーシップ型とジョブ型という言葉をよく目にした。日本ではメンバーシップ型で、欧米ではジョブ型の雇用と呼ばれているらしい。日本の労働生産性が低いのは、メンバーシップ型で仕事の責任範囲が曖昧だから、とよく言われていた。だからこそ、ジョブ型にして、仕事の役割を明確にして、生産性を上げるという話がもっぱら盛んだった。
でも結局は、正社員として高い給料を貰いたければ、転勤とか、残業とか、これまで通りと同じ踏み絵を乗り越えるしかないように見えた。正社員という身分は、いつでもどこでも勤務地を変更して、いつまでも無制限に残業することを黙認する。裏を返せば、結局、今回の法制度改正はそれを決定づけるものにしただけのように思えた。
「先に言っておくけど、給料決定は、派遣元だから。うちとしては、やってる仕事が変わらない以上、小早川さんの給料は変わらないよ」
説明会の後、佐々木課長に呼びされた紗希は、開口一番に言われた。
「高梨さんも出向しましたし、私が正社員の仕事をもっと背負っていく、というのは、ダメなんでしょうか?」
「そんなことしたら、小早川さんの給料、上げなきゃいけないじゃん。ただでさえ、人件費が利益を圧迫しているっていうのに」課長が苦々しい顔をしながら、吐き出すように言った。
私の目の前でそれを言うか、と紗希は思ったが、そのあとに課長の言葉が続く。
「そもそもさ。仮に正社員を同じ仕事としてね、会社が望む成果を、君は上げれるの? 上げれるなら考えてあげてもいいけど。小早川さんの契約は、軽作業、正社員の補助。この契約を変更する? でも、正社員の仕事は、全然重みが違うのよ。コミュケーション能力とか、折衝力とか、統率力とか。そういう高度な能力が求められるわけ。あとは、きつい任務を遂行する忍耐力とか。小早川さん、そういう経験、まだ無いじゃない」
紗希は唇を噛み締める。だからそれを蓄積するために、同じ仕事を経験させてほしいと言っているのに。それに忍耐力ってなんだ。この会社は軍隊なのか。いつの時代も、新たな正義の刃を振りかざす時には、まずは批判される。異を唱える革命家は独りぼっち。それがよくわかる。
「あぁ、高梨が抜けた穴は、心配しなくて大丈夫。高梨の代わりの仕事はあの子にやってもらうから」課長は剃り忘れの髭が残る顎で、後ろの席に座る女性を差した。日下部(くさかべ)まどかだ。「小早川さんは今まで通り、正社員――彼女の補助ということで」
「日下部さんは、まだ2年目じゃないですか……」
「君も2年目だろ。同じだ、同じ。二人で半人前。係長の嘉瀬川にもバックアップをお願いする予定だから。正社員が2人いれば、高梨1人分のマンパワーになるだろ」
課長は、本気なのか、冗談なのか、よくわからない声色で笑っていた。
やはり、正社員は責任と根性が対価なのだ。本当に、働き方改革でこの考えが変わるのだろうか。派遣職員のスキル向上も、契約が違うと突っぱねられる。
結局、個人のスキルは関係ない。責任があるか、ないか。いや、責任でもないんだ。会社の言うことを是として、利益を上げることができるか。会社に忖度できるスキルがあるか、どうか。
でも。と、紗希は思った。
そんなもの、いらない。
「ねぇねぇ」
今日の仕事を終え、女子更衣室でコートを取り出そうとしている紗希の肩を日下部まどかがつついてきた。いつの間に部屋へ入ってきたのだろう。思わず紗希は、飛び上がった。
彼女は紗希と同じく去年の4月からこの会社で働き始めていて、大学院修了だったはずなので、紗希と同じ年齢になる。
「紗希、でいいよね? 同期みたいなもんだし。あたしのことも、まどかって呼び捨てでいいからさ」
「い、いいけど……」
その言葉にまどかはパッと顔を明るくした。マリーゴールドのように丸く、明るい笑顔だった。身に付けている服も、その花を少し薄くしたような色をしていた。
「紗希は、去年1年、ずっと高梨さん専属みたいなもんだったからさ。仕事も別だったし、あたしも話しかけづらかったのよね」
確かに彼女と話をした記憶はないな、と紗希は記憶を辿った。実際のところは、紗希が他の人との接触を避けていた、というのが正しい。
今年から仕事、大変そうだよねー、とまどかはまるで他人事のように呟きながら、自分のロッカーを開けた。
「まー、仕事なんてさ、手段よ、手段。あたしはいい男見つけて、さっさと結婚して、専業主婦になるんだ。子供は一人でいいかなー。育児大変そうだし、お金かかるし。旦那には1年間、育休取ってもらえば、負担も少し軽くなるよね」
「でも、育休って、お給料、減るんじゃなかった?」
紗希は高梨が言ってたことをぼんやりと思い出した。
「え、そうなの?」
「うん。確か6割くらい、だった気がする」
「普通の有給休暇と一緒じゃないんだ。げー。それは困る」
まどかは大げさに肩をすくめる。少しウェーブのかかった茶髪の頭が、風船がしぼんだようにうなだれた。かと思えば、
「ねぇねぇ。紗希は結婚とか、考えてないの? 彼氏は?」
好奇心むき出しの顔で、紗希へ噛みつくように囁いてくる。話題と気持ちの切り替えが早すぎて、紗希は頭がくらくらした。この部屋には二人しかいないのに、声を潜める必要もないではないか。
「……いるけど。でも今、東京にいるから、遠距離」
「え・ん・きょ・り」まどかはもともと丸い目を、更に丸くした。「このご時世、わざわざ遠距離なんて、久々に聞いた! 希少種! こっちで彼氏作ればいいじゃん。紹介するよ、このあたしが」
「いや、遠慮しとく」遠距離恋愛なんて、地方から来てる大学生は普通にしてたよ。紗希はロッカーから荷物を取り出し、その心の叫びを乾いた笑い声と一緒にしまい込み、扉を閉めた。
ダメだ。この人とは根本が合わない気がする。さっさとこの部屋を出よう。話せば話すほど、疲労を注入されるだけだと思い、紗希は逃げるように身体を背ける。「じゃあ、お疲れ――」
「待って待って待って」まどかは紗希の腕を掴んだ。その反動のおかげで、紗希はコートのポケットに入れようとしたスマホを落としそうになった。
「行くよ」
へ? と紗希は思った。
「どこに?」眉をひそめながら、紗希は頬を紅潮させたまどかを見た。
「決まってんじゃん。決起会だよ、決起会。これから2人で頑張ろうって気持ちを込めて。紗希のことをもっと知りたいし。あ、他の同期も呼ぶからさ。同期会、1年越しの全員集合!」
紗希が反論する前に、まどかは既にスマホで同期へ電話をかけ始めていた。まどかの耳元にあるスマホから、コール音が鳴りひびいている。
紗希は心の中で、がっくりと肩を落とした。
【本日のキーワード】
#メンバーシップ型
#ジョブ型
#労働者派遣法
#遠距離恋愛の割合
【本日の参考資料】
紗希の会社は札幌の中堅ハウスメーカー、資本金は5000万円以上という設定です。ハウスメーカーの業種の括りが曖昧ですが、サービス業としました。したがって、大企業という括りになります。
https://www.mhlw.go.jp/content/000596564.pdf
派遣労働法のポイント
■派遣労働者への均等・均衡待遇が、派遣元の義務に。
■派遣元への賃金等の待遇処情報提供が、派遣先の義務に。
■派遣労働者への待遇等の説明が、派遣元の義務に。
■苦情の自主的解決が、派遣元・派遣先の義務に。
実に非正規職員の6割が、同一労働同一賃金の施行を知らないという事実。
正社員のような責任を負いたくない、残業したくないという理由で正社員にならない人も中には存在するでしょう。
そもそも「同一労働」という言葉に違和感を覚えます。そこに「同一成果」は含まれるのでしょうか?
正社員と非正規職員の待遇差よりも、正社員同士の明確な評価を望みます。
ところで有期雇用労働者への貢献度は、どのように評価するのでしょうか?
※太字引用**************
「賞与であって、会社の業績等への労働者の貢献に応じて支給するものについて、通常の労働者と同一の貢献である短時間・有期雇用労働者には、貢献に応じた部分につき、通常の労働者と同一の賞与を支給しなければならない。また、貢献に一定の相違がある場合においては、その相違に応じた賞与を支給しなければならない。」
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残業前提で生活せざるを得ない給与体制の会社で、更に給与が下がる制度を設けられても……。
【おまけ】
日本では約3割の若者が遠距離恋愛をしている。意外に多い!