言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

☆006.Work Life Things~仕事と生活の彼是(あれこれ)~

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 「太陽は今日、図書館で絵本を借りるー」

 課長に嫌味を言われながらも午前中の休日出勤を終えた真一は、家の玄関に足を踏み入れた瞬間、息子の太陽にせがまれた。太陽は図書館で絵本を借りることが大好きだ。自分で読みたい絵本を選び、まだ拙い口調だけど、自分で平仮名も読んでいる。3歳のくせに、と思う。娘の陽乃なんて、4歳になってからようやく平仮名が読めるようになったのに。

 2月の三連休の図書館は、学生たちが自習室を占拠していた。入試が近いから、追い込みをしているのだろう。気のせいか、糸が張り詰めたような空気が館内に漂っていた。

「新幹線の絵本、借りるー」

 そんなピリピリしたムードに構うことなく、太陽がパタパタと長靴の音を響かせながら、絵本コーナーへと向かう。

「あ、こら、太陽。図書館では静かにしなさい」真一が張り詰めた糸に触れないようなギリギリの声で叫ぶ。

 その声に不審気な顔を上げる若い女性がいた。女性は本棚の脇にある椅子に腰かけ、本を読んでいたらしい。騒がしくて申し訳ないと思った瞬間、真一と目が合った。

「あれ? 小早川さん?」

 真一は思わず、太陽を注意した時よりも大きな声が飛び出てしまった。そこにいたのは同じ会社で働く派遣職員の小早川紗希だった。

「どうしてここに?」

 周りの視線を気にしながら、真一は声をひそめて尋ねる。

「ちょっと調べ物をしたくて……」紗希が気まずそうに苦笑いしながら、読んでいた本を閉じ、黒い瞳を絵本の本棚へ傾けた。「息子さんですか?」

 紗希が見つめる方へ真一も目を向ける。太陽が電車の絵本にするか、車の絵本にするか、迷っているところだった。

「うん。名前は太陽。夏に4歳になる」

「高梨さんにそっくりですね」紗希が柔らかい表情で微笑む。

「よく言われるよ」

 真一が視線を戻すと、紗希の脇にはハードカバーの本が積み重なっていた。一番上に置かれた本の表紙が見えた。『派遣労働という働き方』というタイトルだった。

「……もしかして、金曜日に俺が言ったこと、気にしてる?」

「いえ、そういうわけでないんですけど」真一の目線に気が付いた紗希が首を小さく振り、積み重なった本に手を触れた。「私、高梨さんが金曜日に言っていた『どうして残業が多いのか』、その原因をどうしても知りたくて」

「やっぱり気にしてるんじゃないか。あの日はごめん」

「いいんです」紗希が目を細めながら小さく笑った。「私の方も、言い過ぎました。ごめんなさい。高梨さんも知ってるかもしれませんけど、私、昔いろいろあって、気持ちの起伏がちょっと激しいんです」

 紗希の瞳が少し影を帯びて、曇った色へ変化したことに真一は気づいた。紗希は大きく息を吐き出しては、ゆっくりと吸い込んでいる。まるで、不安な気持ちを胸にため込んでいるように見えた。詳しい事情は知らないが、紗希が大学院を中退したという話は、会社の噂で真一もなんとなく聞いていた。でも、その人の過去がどうだとか、職歴がどうだとか、真一にとってはどうでもいい話だった。紗希は真面目だし、細かいところに気が利くし、仕事の能力が高いと真一は心の中で評価している。それで十分ではないのか。

「おとーさん、太陽、この絵本にする」

 太陽が2冊の本を持ってきた。新幹線と車のイラストが表紙に描かれた絵本だ。迷った挙句、両方とも借りることにしたのだろう。

「本、買ってくるー」図書館で本を借りるではなく、買うものと勘違いしている太陽が、真一の横をすり抜け、貸出のカウンターへ向かおうとする。真一は慌てて、「ちょっと待て」と絵本を抱える太陽の首を捕まえた。

「高梨さん」太陽と戯れる真一に紗希が声をかける。「出向したら、残業が多いんですか?」

「……今よりも少ないって聞いてる」

「じゃあ、今よりもっと、家族サービスが出来ますね」紗希が眩しそうに太陽を見つめた。

「残業代が更に減るけどね」真一が苦笑した。

「私、決めました」紗希が数冊の本を抱え、立ち上がる。「自分の価値を高めることを。このまま、派遣で満足するような人生なんて、嫌なんです。そのためには、どうしたらいいのか。その答えをなんとか探してみたいと思います。目指せ、冷たくならないカイロですよ。この社会の仕組みを少しでも多く知ることが出来れば、きっとその時は――」

 紗希は腕に抱えた本を力強く握りしめた。

「俺も些細なことだけど、決めたことがあるよ」太陽の頭を撫でながら、真一が言う。「もう二度と休日出勤なんてしない。残業なんて、くそくらえだ。子供たちの未来にどれだけ自分の時間を投資できるか。それをとことん突き詰めるよ」

 太陽が首を離した隙に、貸出カウンターの方へと駆けていく。「あ、こら」と真一が小さく舌打ちするのを見て、紗希は笑った。

「お互い、やることが多くて大変ですね」

「まったくだよ」

「まぁ、高梨さんが出向から戻ってくるまで、私があの会社にいるかはわかりませんけどね」

「……そんなこと言うなよ」

 冗談なのか、本気なのか、どっちかわからない紗希の言葉に真一は肩を落とす。紗希はそんな真一にからかうような視線を投げかけ、胸にため込んだ不安を押し戻すように笑い声をこぼしていた。

 

 

【本日のキーワード】

#ワークライフバランス指数

#人的資本の向上

#子供たちへの投資

 

 

【本日の参考資料】

日本の人的資本の水準は高いが、一人当たりの水準は低い。教育機関への投資の官民割合も、先進国の平均を下回る。

 

2030年展望と改革タスクフォース報告書(参考資料集) 分割版2

www5.cao.go.jp

 

日本のワークライフバランス指数は、世界最低水準。単純に、仕事の時間と家事・育児の時間で割り返したものであるが。

後者のデータは少し古いが、ワークライフバランスを改善しようとする人の割合も世界最低である。また、仕事のスキルの改善を望む人の割合が高い。

 

tmaita77.blogspot.com

www.itmedia.co.jp

 

 

夫の育児に対する時間は、世界最低水準。

結局のところ、現在でも男性の育児に対する意識はまだまだ低いと推定される。

 

www8.cao.go.jp

 

 

紗希が手に取った本は『派遣労働という働き方』。

派遣労働に関することが、経営者視点(派遣元と派遣先)と派遣労働者視点から語られている。後々、詳しく紹介したい。