言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

★006.失われた30年

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 午前10時。洗濯機を回していると、突然、玄関のインターホンが鳴り響いた。

「お母さん。どうしたの?」紗希が玄関の扉を開けると、母がパンパンになった手提げ袋を抱えていた。

「野菜。持ってきてあげたよ」

「重かったでしょう」

 紗希は母から手提げ袋を受け取る。中身は玉ねぎやじゃがいもなど、保存のきく野菜が詰まっていて、ずっしりと重かった。

「地下鉄だとすぐだから、大丈夫」

「言えば、取りに行ったのに」

 紗希はキッチンに袋を置き、中身を取り出した。母がワンルーム8畳の部屋へと入り、ソファに腰かける。

「相変わらず、殺風景な部屋ねぇ。ちゃんと食べてるの?」

「お正月から一人暮らし始めて、まだ1か月も経ってないんだから。ちゃんとご飯も自炊してるよ」

「そういえばあんた、田辺君とはどうしたの? まだ続いてるの?」

 冷蔵庫を開け、じゃがいもと玉ねぎを野菜室に入れていると、母が尋ねてきた。

「……続いてるよ」

 田辺君とは、紗希が大学時代から付き合っている男性だった。本名は田辺勝也(たなべ・かつや)。今は東京の会社に勤めているので、遠距離恋愛だった。田辺も地元がこっちなので、会う機会はそこそこ多かった。でも、最近は田辺も忙しいらしく、年が明けてからはまだ会えていなかった。

「紗希は女なんだからさぁ。黙って専業主婦になっておけばいいんだよ」

 母の言葉を聞いて、貰った野菜を冷蔵庫に入れる紗希の手が止まった。

「これ以上、頑張る必要はないんじゃないかい? 田辺君、いい会社に就職したんだろ? もう十分じゃないか。自分の身体を壊したって言うのに、2年経たないうちに仕事をしたいと言った時には、母さん、自分の耳を疑ったよ」

「お母さんはさ。専業主婦で幸せだった?」

「なんだい。突然」母が珍しくうろたえる。「自分の人生が幸せだったかどうかなんて、死ぬときにならないとわからんよ」

 

 平成の時代は失われた30年だったと、今の日本は言われている。最近、インターネットでそういう記事を見かけた。紗希は1994年(平成6年)に生まれ、今年の5月3日で26歳になる。失われた時代を、紗希は駆け抜けてきたことになる。

 12年前、紗希が中学二年生の時にリーマンショックが起きた。サブプライム危機だとか、なんだかよくわからない横文字が連日、ニュースで飛び交っていたけれど、紗希にはちんぷんかんぷんだった。でも、『派遣切り』という言葉だけは、紗希の記憶に刻み込まれていた。

「こりゃあ、やばいな」とネクタイを締めながら、父が呻いていた。「正社員もたくさんの人がリストラされるかもしれない。紗希は大学に行ってきちんと勉強して、安定した会社に入れよ。派遣社員なんかになったら、人生おしまいだぞ」

 当時、紗希は「自分の人生はこうならない」とぼんやりと思っているだけだった。大学に入れば、安定した会社に入れる。だから、勉強さえ頑張ればなんとかなる。そう考えていた。

 しかし、今思い返してみると、紗希だけではなく、父もきっと、それらのニュースを対岸の火事として見ていたのだ。

 それからの世の中は、株価が上がったとか、下がったとか、そればかりだった。お金がくるくると回っていた。父や紗希の見えないところで。見えないから、家族や紗希の手元には落ちてこないし、落ちてきても気づかない。

 まるで、今の世の中の正社員と派遣職員みたいだった。会社の売り上げが上がっても、派遣職員には何も還元されない。売り上げが下がったときは、派遣職員を切り捨てて、正社員が死ぬ気で頑張れば、取り戻せると考えている。

 だから、父も我武者羅に働いていたのだろう。どこでお金が回っているのかもわからずに。会社を安定させるために。高校に上がってからは、父が家でゆっくりしていたという記憶は、紗希にはほとんど無かった。紗希も高校生だったので、父が家にいようがいまいが特に気にしていなかった。だけど、毎日、父の分の夕食をラップに包んで冷蔵庫に入れる母の背中が、疲れてどんどん小さくなっていくのを、なんとなく感じていた。

 

「そろそろ帰ろうかね。今日は珍しく父さんが家にいるから、昼ご飯を作らないと……」

 母が腰をさすりながらゆっくりと立ち上がる。

「地下鉄の駅まで送るよ」そう言って紗希はコートを着込んだ。

 道路は雪がうっすらと積もっていた。空は青く染まっていて、筆の先からぽたりと落ちたような雲が点々と散らばっていた。気温は氷点下だった。

 紗希は母の少し後ろを歩いていた。今年でもう55歳になり、母の背中はますます小さくなったように思う。

「じゃあね。明日からまた一週間、仕事、頑張りな」

 母はマフラーに顔を埋めながら、手を振り、地下鉄の入口をくぐっていった。

 母が紗希を心配していることは、痛いほどよくわかる。もちろん、大学院まで行かせてもらった父と母には感謝もしている。だからこそ、自分は働いて、自分の価値を高めて、少しでも恩返しをしなければならないのだ。

 仕事だけをやっていればいいとか、家のことだけをやっていればいいとか、そういう切り取られた考えが、紗希にはどうしても納得できなかった。この気持ちを素直に伝えれば、父も母も、紗希が働くことをきちんと納得してくれるのだろうか。

 帰り道、紗希は古本のチェーン店に立ち寄った。三連休の最終日だったので、店内は結構混んでいた。

 労働に関する安い本でも読んで、今の日本の現状を少しでも勉強したいと紗希は思った。100円コーナーの本棚に行くと、それらしい本は何冊か並んでいた。

 なんとなく手に取った本は、日本の雇用問題に関することが書かれていた。非正規職員の増加。長時間労働。過労死。少子高齢化。10年以上前に出版された本なのに、課題は今と一緒だ。しかも、まだリーマンショックが起きる前の話だ。

 それだけでも戦慄したのに、パラパラとページをめくっていると、紗希は衝撃の言葉に目が留まった。

『これらの課題を放置すると、日本は失われた20年になる』

 今と全く同じことが提言されている。

 

 ――何も変わっていないんだ。日本は。

 

 派遣職員とか有期労働者とか、いわゆる非正規職員は、たぶんこれからもどんどん増えるのだろう。

 じゃあ、これからの時代、自分の価値を高めるためには、一体どうしたらいいのだろう。

 そもそも、一体、何が日本をそうさせたのか。

 

 人は、当事者にならないと、真剣に物事を考えない。

 

 紗希は古本を握り締めながら、今この日本が抱えているたくさんの課題が何なのか、解決するためにはどうすれば良いのか、真剣に向き合おうと心に誓った。

 

 

【本日のキーワード】

#外部労働市場の推移

#失われた30年

#派遣職員

 

 【本日の参考資料】

平成の30年で非正規雇用の割合が倍以上になりました。少子高齢化も進んでいるので、若者の非正規雇用の絶対数も一概に増加したとは言えませんが、賃金格差は確実に広がっています。

 

nalevi.mynavi.jp

 

ヤフーコメントにも書いてますが、残業時間規制云々の前に、そもそも「残業しないと生活が出来ない」ことが間違っています。

ただし、この生活と言うのが、「結婚して、子供を育てることがきつい」という絶妙な生活給になっています。

氷河期世代や非正規職員は、もはや蚊帳の外です。今後もますます格差が広がるでしょう。正社員ですら、これからも生活がきつくなることが必須です。

 

※ヤフーニュースなので、リンクがそのうち切れそうです。

headlines.yahoo.co.jp

 

※太字は参考文献より引用

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 働き方改革関連法により昨年4月に上限規制が始まった時間外労働(残業)について、主要企業110社のうち45%に当たる49社が、前年に比べ残業時間が変わらなかったり増えたりしたことが21日、共同通信社の調査で判明した。業務削減や効率化に取り組むものの、長時間労働など働き方の見直しが進まない実態が浮かんだ。

 今年4月に始まる同一労働同一賃金については、72%に相当する79社が非正規労働者の待遇改善が進むと回答。昨年施行した年5日の年次有給休暇の取得義務化では、63%に当たる69社が「休日取得が増えた」とした。

 調査は1~2月に実施した。

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