カードリーダーを通し、会社のビルに入ると守衛がお疲れ様ですと微笑みかけてくる。
「休日出勤かい? ご苦労様だねぇ」
高梨真一は無言のまま、苦笑した。今日は祝日の月曜日。三連休の最終日だった。
エレベーターに乗り、真一は職場である5階へ向かう。フロアの電気は既についていた。
「お疲れ様です」
真一は自分の席の対面に座る佐々木課長に挨拶をした。佐々木は真一の直属の上司であった。
「高梨。土曜日、なんで来なかった」
佐々木は真一の挨拶に反応もせず、パソコンの画面に視線を据えたまま、淡々と口を開いた。まるで、人工音声のようだった。
「なんでって。会社は休みですけど」
「この時期は納期が近いから、休みの日でもみんな来てるんだぞ。一人だけ休んでる場合じゃない。わかってるのか?」
「……すいません」
肩に掛けたリュックを机に下ろし周りを見渡すと、確かに、同じ課の職員は全員がパソコンに向かっていた。と言っても、佐々木と真一含めて、全職員が5人だけの小さな課だった。これに派遣職員の小早川紗希が加わる。真一は設計デザイン課に所属していて、建物の図面作成やデザインを主に行っているが、近々の納期は2週間後。まだ切羽詰まるような状況ではない。
「小早川は、今日来るのか?」
「いえ、そういう話はしていません」
「あっそう」
それきり佐々木は言葉を切り、無言のまま、タイピングだけを続けている。
真一は自席の椅子に腰を下ろし、パソコンを起ち上げる。
「高梨。この図面、大判で印刷しておいてくれ。メールしておいた」佐々木が口を開いた。「チェックしたいから、今すぐな」
パソコンが起動し、まさに自分の作業を始めようと思った矢先だった。
「……わかりました」
「小早川いないから、出来るのはお前だけだからな」
大判の図面印刷は、職員のパソコンが置いてある職務フロアと別室で行う必要があった。真一は、自分でやれよと心の中で毒を吐いたが、その素振りを見せないように立ち上がる。職務フロアを出て、大型プリンターのある部屋へ向かう。
印刷室と書かれた扉を開けると、薄暗い部屋の中に、大きなプリンターが大きな口を開けていた。まるで海底に潜む鯨のようだった。印刷開始のスイッチを押すと、いつも目にする大きさの何倍もある紙が、機械音とともにゆっくりと吐き出されてくる。
ポケットでスマホが震える。見ると、妻の結子からのラインだった。
『今日の昼ご飯は陽乃(はるの)が作るカレーだよ』
というメッセージとともに、エプロン姿の長女・陽乃が子供用の包丁を握り締め、ジャガイモを切っている写真が一緒に添えられていた。
結子は今日、バイトが無かった。今朝は土日の慣れないバイトに疲れていたのか、真一が家を出るギリギリまでベッドから出てこなかった。
真一は「俺も食べてみたいから、残しておいて」と返信をした。
本当は休日出勤をしなくてもすむよう、連休が始まる金曜日の夜に、自分の作業を出来る限り進めていた。昨日の夜、寝る直前になって、真一は作業したところがなんとなく不安になった。一度不安になると、頭の中が休むという気持ちになることはなかった。だから、今日は午前中だけ会社に出て、念のためのチェックをしたいと思ったのだ。
真一は薄暗い部屋の天井を仰ぎながら、長々とため息を吐き出した。印刷が終わり、プリンターから吐き出された大判の図面を引っ張り出す。
小早川さんを呼んでなくて、正解だったなと真一は思った。次に課長が押し付けてくる雑用はなんだろうか。
納期が近かろうが、休日に会社へ来なくてはならないというルールなど、無い。
しかし、仕事というものは、誰か一人でも欠けていることが許されない。みんな同じ職場へ、一斉に来なくてはいけない。この輪の中に、家庭の事情というものは無視される。職場に来なければ、休んでいる、さぼっている、やる気がないと思われるのだ。
くだらない。真一は胸の中で吐き捨てた。
決めた。俺はこれからもう、休日出勤なんてしない。
印刷された大判の図面をテーブルの上で丁寧に折りたたみながら、真一は心の拳を振り上げていた。
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#休日出勤
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【本日の参考資料】
休日出勤をしている人の割合は、実に3割もいるらしい。しかも、アンケートでは大多数の人たちは休日出勤を仕方が無いと考えている。パートナーですら。
同じ職場に行く。同じ日に仕事をする。同じだけ残業をする。
成果主義とは一体何なのか。
添付は少々古いデータであるが、日本の正社員の労働時間はほぼ横ばいで推移している。
総労働時間は減少しているが、これはパートタイム労働者の比率が増えていることが要因である。