真面目に、愚直に生きることは、とても辛い。
東京の大学院を辞め、地元の北海道に戻った紗希は、実家で療養していた。軽いうつ病と診断されたので、気持ちを落ち着けるまで1年ほどかかった。
ようやく札幌で就職先を探せるようになった頃には、実家に戻って2度目の冬を超え、大学を卒業して既に2年が経っていた。
2年の空白は、紗希にとって、ひどく重たく、冷たいものだった。
『自己分析が重要』
大学院中退という肩書を持つ紗希が考えなければならないことは、ひたすらに理由だった。自己分析。自分の長所とは何か。短所とは何か。何ができるかではない。何をしたいか。ひたすら自己分析の日々。
世はどこもかしこも人手不足と叫ばれている。それでも、大手企業の雇用の網にはかからなかった。紗希はなんとか、派遣職員として中規模企業に雇ってもらえた。2019年の春、時代が令和に変わる直前のことだった。
札幌のハウスメーカーだった。大学の専門知識やパソコンの基礎知識を生かせる場所が良かったので、派遣職員としてなら、という条件でなんとか仕事の土俵へ滑り込むことができた。
「うまくいけば、正社員としての道もあるよ」面接の時、紗希が雇用される部署の部長は言っていた。「でも、大学院中退か。なんで中退したの? 学部の頃の成績も悪くないし、頑張って修士取っておけば、いい企業に就職できたのに。もったいない」
どうして中退。頑張れば。いい企業に就職できたのに。
どこの面接でも耳にした言葉だった。
頑張れば、大学から専門性を生かせる企業へ、階段を登るように入り込むことが出来たかもしれない。
採用は、第二新卒、既卒、卒業年度を問わないという条件も多かった。それでも、採用される絶対数は明らかに若い人が多かった。
紗希が面接を行った日は、新入社員の入社式と被っていた。
よりによって。
面接を終えた紗希は、鞄で顔を隠すように、会社のロビーを横切る。そこには数名の大学を卒業したばかりの新社会人が、不安な気持ちを笑顔に貼りつけているものの、同期の中で会話を交わしていた。
新しいスーツ。新しい鞄。新しい革靴。首にはそれぞれ社員証がかけられていた。
紗希とほぼ変わらない年代。本来であれば、自分もあそこにいるはずだった。
新卒というカードリーダーをかざした人間だけが、同期というプラットホームへ入ることができる。
紗希のように限界値が低い人は、正社員という土俵へ登ることはできない。挫折という名のおはじきがぶつかってきて、非正規労働という世界へ弾き飛ばされる。その世界の境界線はネズミ返しのようになっていて、たやすく戻ることはできない。
少ない貯金で、間に合わせで揃えた紗希のリクルートスーツは、新入社員たちのように輝いてはいないのだ。
ドロップアウトをするということは、これまで生きてきたすべてが、評価対象とならないのだ。
大学卒業という肩書すら残らない。残るものは、中退という二文字だけ。
普通の就職を望む人が、普通の会社で、普通の面接をする時は、過去の肩書よりも、未来へたどり着けなかった理由が重視される。なぜ困難を乗り越えることができたのか。それが企業の求める柔軟性なのだろう。
これからの普通は、成果主義だとか、生産性だとか、効率だとか。そういう言葉が重視されるに違いない。
でも、普通とは、なんなのだろう。普通から、これからも私は遠ざかってしまうのだろうか。
紗希は逃げるように会社を飛び出して、近くのカフェに入ると、面接の時に貰った契約書を鞄から取り出した。
仕事内容。資料作成補助。図面作成補助。電話対応あり。残業あり。
一体、いつから、派遣職員は正社員の補助をするという構図になってしまったのだろうか。
紗希は温かいコーヒーを1つ頼み、明日から始まる新社会人としての日々を思い描いていた。
【本日のキーワード】
# ドロップアウト
# 派遣職員
【本日の参考資料】
新卒の学生の内定率は、83.4%。一方で、既卒の学生は内定率が45%。
近年、上昇傾向はあるものの、依然として、新卒優遇であることに変わりがない。