雪が幾重にも積み重なった公園の雪山で、陽乃(はるの)と太陽はそり遊びをしている。六歳と三歳になると、二人は子供たちだけの世界の中で遊んでくれる。
真一は手持ち無沙汰になるが、体を動かしていないので、一人、寒さと格闘しなければならない。氷点下の中、外に突っ立っていると、足の底から冷え込んでくる。冷気をまとった風は、コートの隙間を探し出して入りは、容赦なく体の中へ込んでくる。真一はぶるりと震えながら、脇の下を締める。
空の機嫌は良好だった。雲一つない。それだけが幸いだ。陽射しを受けると、頬が温まる。
春の足音はまだまだ先だった。
子供たちの遊んでいる姿と声が、徐々に小さくなっていく。二人はそりを引っ張り、新雪に小さな足跡を残しながら、公園の反対側へ進んでいく。
真一は、太陽が生まれる前のことを思い出していた。
「まさか、育休取らないよね?」二人目の出産予定日を知った上司の第一声は、それだった。「こんなに仕事を抱えているのに、育休で休んでる暇なんてないぞ。高梨のような30代なんて、希少種だからな。子供が産まれるんなら、その分、頑張らないとな。男は子供のために働くのみ」
「……取らないですよ」
真一は無理矢理な笑顔を作り、上司との会話を終える。
真一の働く会社にも、育休制度はあった。真一は会社のホームページを開き、福利厚生の部分をクリックする。
『わが社は育児休業制度を導入しています』
ご丁寧に、取得率の推移まで表示されている。これがパフォーマンスであることは、社員ならば誰でも知っていた。
「高梨さん、育児休業、取らないんですか? 男の人が前例を作ると、会社のPRにも使えるのになー」
総務部の事務にこう言われたこともあった。
世の風向きは、夫が育児休業を取れと言わんばかりであった。それなのに、現場は窓を閉めて、その風の流れを遮断している。自分達には関係ない。そういう空気だった。
太陽が産まれた後、結子の負担は、当然のごとく増した。
「トイレで吐いた? 胃腸炎かもしれない?」
結子がしんどい、と助けを求めた時、真一は出張で東京にいた。
電話の奥から、陽乃の甲高い声とまだ1歳にならない太陽の泣き声が聞こえる。
思考が揺れ動く。
体調がどんなに悪くても、育児は休むことなく続く。そんなことはわかりきっていることだ。
幸い、結子の母がたまたま捕まったので、結子はその日、病院へ行くことができた。真一は海を越え、遠く離れた都会でほっとした。
「俺の子供は祖父母に任せていたぞ」上司が自分の昔のことを自慢げに話す。「高梨も実家近いんだろ? 任せておけばいいんだよ」
夜の東京。上司がビールを飲みながら、赤い顔で笑っていた。真一はさすがにアルコールを摂取する気分ではなかったので、ウーロン茶を飲み、愛想笑いでごまかした。
結子の両親は飲食店を経営していた。60歳近くなった今も、二人そろってバリバリ現役だ。ほとんど休む間もなく働いていた。近くに住んでいるのに、孫の顔を見ることすら、月に一度あるかないかだった。真一の両親も同じだった。
今や、親世代ですら60歳を超えても共働きすることが普通になりつつある。1億総活躍を謳っている社会なのだから、当然の帰結なのだろう。
「育休で休んでる暇なんて、ないぞ」
休む?
休むってなんだ?
育児をするために仕事を休業するのだ。仕事を休みたくて休むわけじゃない。
「休んでる暇なんて、ない」
暇?
暇ってなんだ?
昔も今も夫が家庭を犠牲にして働くことも、子供の成長を見る暇もないことも、変わりがない。
でも、会社が人手不足と言うならば、今は育児も人手不足なのだ。ツケを後回しにしていた皺が寄りに寄って、アイロンをかけてももう伸ばせないところまで来ている。
負の連鎖がいろいろなところで生じ、首がギチギチに締め付けられ、どこかで誰かが悲鳴を上げている。そして、誰もが聞こえないふりをしている。昔ながらの働き方で回ってきた歯車は、もうそろそろ回らなくなる。
なぜ、この社会は、目の前の仕事が圧倒的に優先されるのだろうか。
これからの経済を回していくのは、他でもない。次世代の若者や子供だと言うのに。
この頃からだ。真一は思った。
息苦しさと違和感を強く感じ初めたのは。この社会のすべてに対して。
どこまでも青く透き通る空を、真一は見上げた。現実は真一を遥か彼方から見下ろして、あざ笑っているのだろうか。
それを証明するかのように、冷たい風が真一に向って強く吹き下りてきた。思わずコートに顔を埋める。
そろそろおやつの時間だ。
真一は冷え切った足を上げ、その一歩一歩を新雪に深く埋めながら、遠く離れた子供たちの元へ向かった。
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【本日の参考資料】
日本はこのまま、衰退国家を絵に描いたような時代になるのでしょうか……。
女性(45~64歳)の就業率の変化
https://www.stat.go.jp/data/roudou/tsushin/pdf/no13.pdf