言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

★003.労働の空白

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 少し熱いくらいの湯に浸かり、ルームウェアに着替えると、心がほっとして、落ち着いた。

 紗希は部屋のソファに座り、濡れた髪の毛をバスタオルで丁寧に拭いていた。

 ……さっきは、高梨さんにきつく言い過ぎたかな。突然、帰っちゃったし。休み明けにちゃんと謝ろう。

 紗希は少し反省しながら、リモコンでテレビをつける。大学の頃から使っている液晶モニターの中に、ニュースキャスターが映し出された。

「あなたは、なぜ、残業が多いのですか?」

 突然の声に、紗希は思わず胸がどきりとした。

 ニュースで働き方改革の効果について、専門家の意見を聞いているところだった。タイミングが良すぎる。

「中小企業に対しても、働き方改革法案がこの4月から施工されます。これについては、教授、いかがでしょうか?」

「大企業については、去年の4月から既に残業上限規制が掲げられてますけどね。これに関しては、一定の効果があったと、私は見ています」

 画面が切り替わる。出てきたのは、何かのグラフ。近年の残業時間の推移らしい。残業時間が徐々に減少していると教授が話している。

「2019年の残業時間について、企業の管理部門にアンケートを取ったところ、『確実に残業時間は減っている。業務の効率化に向けて、ムダを省いたことが効いている』という回答が非常に多かったんですね。だから――」

 紗希はリモコンでチャンネルを変えた。今は残業がどうとか、聞きたくない気分だった。地域のグルメ店を紹介する番組に切り替わった。

 ワインとチーズ。さっき、山口香(やまぐち・かおり)と街で飲み食いしたものと同じものだった。今日のテレビはやけに私の一日とラップするな、と紗希は苦笑した。

「うちの会社さ、子供が生まれた職員に対してはテレワークしてもいいよって言ってるんだけどね」

 香の言葉を思い出した。彼女は去年の秋、長女を出産したばかりだった。でも、育児休業を取る気がなかったらしいので、早々に職場へ復帰している。家事と育児は夫と分担しているそうだ。

「なんか、不定期でパソコンの画面が保存されて、仕事さぼっていないかいちいちチェックされるらしいんだよね。でもさー、会社で仕事してても、ネット見たりとか、煙草にしょっちゅう行くとか、さぼってる奴なんて、結構いると思うんだよ。なんで家で仕事をするってだけで、信用されないのかって話よ。会社にいる人のパソコンも不定期でチェックしろっての」

 なんか、働き方改革って、逆に働きづらいよね。息が詰まる。香はため息交じりでぼやいていた。

 紗希はテーブルの上に置いてあったスマホを手に取り、働き方改革について、検索してみた。

『誰もが生きがいを持ってその能力を最大限発揮することができる社会を創る』

 働き方改革は、残業時間を減らし、人間らしい生活を送るためのものと、紗希は認識している。でも、多くの人から聞く声や、実際に紗希が肌で感じているものは、そうではなかった。

 さっき、テレビの教授は、残業時間が年々減少していると話をしていた。高梨さんの話を聞いていると、そんなことはあり得ないはずだ。むしろ、見えない残業時間が増えているような気がしてならない。持ち帰り残業にしろ、テレワークにしろ、隠される要素はたくさんある。

 なにかがおかしい。紗希は思った。

 どこかで、何かが、『空白』になっている感じがした。視点がぼやけすぎて、そこに何があるのかわからない。目を向けると、パッと消えてしまうような、そんなもやもやしたもの。それにみんな、気が付いていない。いや、気が付いているんだ。でも、どうしていいのかわからないんだ。どうやって働けばいいのか、途方に暮れているのかもしれない。

 紗希は頭を振りながら、大学時代から愛用しているノートパソコンを起ち上げる。

……ダメだ。私なんかが一人で考えても、全然わからない。

黒い画面の中にWindowsと文字が表示され、ハードディスクの回転する音が響く。少し古いものなので、立ち上がりが遅かった。

 なぜ残業が多いのか。いや、そもそもなぜ働くのだろうか。

人が働く理由は、様々だ。でも、最低限の生活すらできない働き方に、一体、何の意味があるのだろう。

 パソコンが起動した。紗希はキーボードで勢いよく文字を打ち込む。

 

 

 ブログタイトル。なぜ残業が多いのか。

 執筆者。小早川紗希。

 

『「あなたは、なぜ、働くのですか?」

 

 この問いに関する答えとしては、今や、人それぞれ無数に存在するだろう。

 社会貢献のため。自分・家族の生活のため。自己実現のため。

「労働」というのは、これらを実現するための「手段」であるが、わたしたちが労働をする以上、そこには必ず労使関係が存在し、使役するものは「対価」を支給しなければいけない。

 日本ではそれは、「現金」であり、その絶対的な価値をベースとして、生き抜くために必要な生活用品を購入したり、家賃を払ったり、光熱費を払ったり、時には息抜きのためにCDを買って音楽を聴いたり、旅行へ行ったり、再び明日、労働をするための糧としている。

 日本は現在、少子高齢化グローバリズムなどの影響により、かつて経験したことのない局面に突入している。その影響は労働環境にまで深く及んでおり、様々な弊害が叫ばれている。

 

・有期社員や派遣社員が増加し、正社員にすらなれない。雇用そのものが身分化されている。

・税金がどんどん増えて可処分所得が減っていく一方で、共働きでも正直しんどい。

・夫が育児休暇を取得しても、家事・育児に協力してくれない。何のための休みなのか。

働き方改革はただただ時短と叫ぶだけ。人を増やすか、仕事量が減らないと無理。

・他企業との競争が激化し、利益を生むために人件費を縮減さぜるを得ない。

 

 これらの根本の原因となるものは、一体、何なのか?

 私は労働の過程に生じる『空白』の原因を可視化し、働くことの意義を今一度、見つめなおしていこうと考えている。

 気長に付き合っていただけたら、幸いである。』

 

 

 ……私は、使い捨てカイロになんて、絶対になるものか!

 紗希はブログの記事をアップしながら、心の中で強くそう叫んだ。

 肩まで伸びた髪の毛が頬に張り付く。紗希は髪を乾かしていないことに気が付いた。今日はしっかりブラッシングをして、トリートメントしよう。そう思いながら、ゆっくりと立ち上がった。

 

 

 

【本日のキーワード】

#なぜ残業が多いのか

#なぜ働くのか

#働き方改革

 

 

【本日の参考資料】

働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律

 

近年、日本の労働環境改善が叫ばれており、平成30年7月6日には、政府から、「働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律」が公布された。

 

その基本方針を以下に抜粋する。※太字は参考文献より引用

誰もが生きがいを持ってその能力を最大限発揮することができる社会を創るためには、

働く人の視点に立ち我が国の労働制度の改革を行い、企業文化や風土を変え、

働く一人一人が、より良い将来の展望を持ち得るようにすることが必要

(厚生労働省HPより抜粋)