言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

★002.なぜ残業が多いのか。②

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「俺、出向を命じられたんだよね」

 電子レンジで温めすぎて萎びた枝豆を指でつつきながら、高梨が他人事のように言った。

「え。どこにですか? まさか、北海道外? 単身赴任?」

 紗希が心配そうに尋ねた。高梨は結婚していて、子供もいたはずだ。

「幸い、市内だよ。でもさ。これが市外だったらと思うと、ぞっとしたよ」

「なんだ」

 紗希は大根サラダを高梨の皿に取り分けながら、ため息をついた。余計な心配をして損した。

「なんだって言うなよ。……サラダ、ありがとう」

「小早川さんはどう思う?」高梨が尋ねた。「日本はなんで残業が多いのか」

「えっと……。どうしてでしょうね」紗季は少し考えた。「うーん。狭苦しい島国の中では、汗水垂らしながら一生懸命頑張らないと生きていけないから、ですかね。東京の満員電車なんか、それを端的に表しているような気がしますけど。努力とか、忍耐とか、根性とか。それを兼ね揃えた人が出世して、会社を支えているんだと思います」

「はぁ。なんか、暑苦しくてむさ苦しい上に、息苦しい。まさに3Kだ。海外に行こうかな……」

「海外? どうしてですか?」

アメリカだったら、成果主義でしょ? バリバリ頑張って認められる社会なら、やる気も出るはずだと思うんだよなぁ。それに比べて今の日本は、出来る人も出来ない人も、みんな年功序列で同じ給料。足の引っ張り合い。管理職、役員は働かないし、仕事は俺に集中するし」

 高梨は萎びた枝豆を口に入れ続けている。紗希の分なんて、お構いなしのようだ。

 時刻は23時半を回っていた。二人は会社近くの居酒屋チェーン店に立ち寄っていた。

 ちょっと、ビール一杯だけ付き合ってくれない? という高梨の提案に仕方なく乗ってしまったが、やっぱりやめておけば良かったと紗季は後悔した。今日は後悔ばっかりだ。

「……さっき、高梨さんが見ていた記事、私も読んでみたんですけど」紗希は千切りされた大根を口で咀嚼しながら、記事の内容を思い出した。「なんか、よくわからなかったですね。あれって、正社員だけの話ですよね。私のような派遣なんて、雇用、全然安定してないですし」

 インターネットの記事によると、日本と言うのは、雇用を安定させるために残業を強いていると考えられているようだ。

「でも、小早川さん。さっき言ったアメリカの成果主義的な話は、結構いい線、行ってると思わない? 自分で言うのもなんだけど、俺なんかさ、まさに『使い勝手のいい人』なんだよ。結局、日本の企業は、そういう人間を踏み台にして、利益を得ているんだよ」

 高梨は最後の枝豆を口へ運ぼうとしたが、手から滑り落ち、床に転がったのを見て肩を落とした。

 お酒が入っているのか、高梨は会社にいる時よりも不満が多かった。よっぽど、最近の会社のやり方が気に食わないのだろう。飲みたくなる気持ちも、なんとなくわかる。

 でも、高梨のような人間を踏み台にして利益を得ているという言葉に、紗希は疑問が湧き出てきた。

「残業が多い。人手不足。そう言っている割には、どうして私たち派遣職員を育てようとしないんでしょうか。どうして、私たち派遣は、派遣以上の仕事ができないんでしょうか」

「どうしてって。そういう契約だからじゃないの?」高梨はビールを一口含む。「人を雇わないで、人件費を抑えたいからでしょ。それに、俺たち社員は、何にも知らないバイトみたいな人たちを教育する時間なんて、無いよ。自分の仕事だけで精いっぱいだもん。うちの会社が条件出して、それに見合う条件を派遣元から派遣している。それが小早川さんでしょ?」

「じゃあ高梨さんたち正社員は、どういう契約を会社としているですか?」

「え?」

「会社から言われるままに仕事して、利益を出して、給料をもらう。でも、そもそもどういう風に利益が決まっていて、どういう基準で給料が決まっているのか知っているんですか? それを知った上で、どうして残業が多いのか。そのことを真剣に考えたこと、ありますか?」

「それは……」と高梨は口ごもった。

「私、ずっと疑問に思っていたことがあるんですよ」紗希はスマホを取り出して、画面をタップした。「これ。会社の採用情報。『大学を卒業していること』が条件です。どうして日本は大学卒を採用するのに、会社に入った途端、大学の勉強はなかったことになるんですか? 高校の時に一生懸命勉強して、受験戦争に勝ち残って、いい大学に行く意義って、一体なんなんですか?」

「……」高梨は黙って、紗季の話に耳を傾けていた。

「……私だって」紗季はスマホを戻し、ビールを飲もうとジョッキを手に持ったが、中は空だった。「もう少し自分を成長させたいと思っていますし、将来、結婚して子供も産みたいですよ。でも――」

 紗季は次の言葉に詰まった。思わず涙が出そうになるのを、ぐっと堪えた。喉が痛い。胃が重くなった。お腹が苦しい。

「……私たち派遣職員は、使い捨てカイロみたいな存在なんですかね。コスト縮減して、会社の懐を温めたら、ポイ捨てされるような、そんな人間なんですかね」

 絞りだした言葉は、擦れていた。

 紗希はビールとサラダ分の千円をテーブルの上に置いて、席を立った。店の外に出ると、雪が世界を覆いつくすかのように降り注いでいた。

 ――温かいお風呂に入りたい。

 残業が多いと不満を言うこと。結局それは、正社員の問題しか見ていないんだ。自分たちは蚊帳の外なんだ。紗季はそう思い、雪のように冷たい悲しさで心が埋め尽くされていった。