言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

★001.なぜ残業が多いのか。

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 やってしまった!

 自分の頭を掴み上げて雪の中へ放り投げてしまいたいほど、小早川紗希(こばやかわ・さき)は自責の念に駆られた。

 家の鍵を、会社に忘れた。

 親友の山口香(やまぐち・かおり)と、街へ飲みに出掛けたのはよかった。でも、約束の時間に間に合うかどうか、ギリギリまで仕事を続けていたのがまずかった。地下鉄に乗り遅れると思いながら、焦って会社を飛び出したのだ。

 コートのポケットからスマートホンを取り出し、時刻を確認する。既に22時を回っていた。

 紗希は2月の寒空の下、ため息をつきながら、仕方なくその足を駅近くのビルまで運んだ。幸いにも、自宅から会社までは数分で歩いていける距離であり、今年は暖冬で雪が少なく歩きやすかった。

 とは言え、会社に着く頃には、雪が舞い始めていた。身体がぶるりと震えた。再びついたため息が渦を巻き、夜の空気の中に溶け込んでいく。当然、会社の正面玄関が施錠されているので、紗希は裏口へ回った。カードキーをかざし、中へ入る。

 年配の警備員が不思議そうな感じで紗希の顔を見つめてきた。お酒を飲んで赤くなっているので、尚更だ。

「あれ? 社員さんじゃないのに、今から仕事かい?」

「忘れ物をしまして……。5階のフロアはまだ開いていますか?」

「5階かい? えーと……」

 警備員は手元にある書類を見ながら言った。紙をめくる音が聞こえる。この会社は、時間外に退出する人はすべて、会社を出た時間が記録される仕組みになっていた。

「あぁ、開いているよ。まだ一人、退出記録がないね」

 紗希は顔をしかめた。まだ仕事していたのか。この花の金曜日にこんな時間まで残業している人間は、紗希の中では一人しか思い浮かばなかった。

「……お疲れ様で~す」

 8階に到着すると、紗希は体を小さくしたまま、自分のデスクへ忍び足で近づいた。

「ん? あれ? 小早川さん?」紗希の背面に座る高梨真一(たかなし・しんいち)が、肩越しに声を上げた。「なにしてんの、こんな時間に」

「ちょっと、家の鍵を忘れてしまって」あははと苦笑しながら、紗希はデスクの脇にストラップ付の鍵を見つけ、安堵した。

「飲んでたの? そう言えば、今日は珍しく急いで帰ってたね。もしかして、デート? 小早川さんも、顔が赤くなるほど、お酒飲むんだねー」

 高梨はパソコンに視線を戻して、いかにもやる気の無さそうな感じで資料を作っている。

「何か手伝います?」

 高梨の質問には応えず、紗希は高梨のパソコン画面を覗き込んだ。色とりどりのグラフが並んでいる。見ていると目がチカチカした。酔った頭にこれはきつい。

「これは社員の仕事だから。それに、小早川さん、酔ってるでしょう?」

 紗希は少しムッとした。酔ってるのは確かに事実だけど、せっかく好意で言ったというのに、社員の仕事だからと線を引くのはいかがなものか。

 どちらかと言うと、紗希は高梨のような軽い人間と接することが得意ではなかった。身体も冷えた。早く帰って熱々のお風呂に浸かって、さっさと温かい布団で眠りたい。と思ったものの、深夜まで残業している人間を無視して帰ることは、やはり躊躇する。

「どうしてこう、日本は残業が多いんだろう」高梨は独り言のように呟いた。「俺、もう、この会社辞めようかな……」

「え」

 その言葉は、帰るか、帰るまいか躊躇する紗希の足を引き留めるには、十分だった。

 高梨は確か、今年で入社11年目だったはずだ。紗希は知らないが、入社した当時は、久々の大型ルーキーと上司たちに叫ばれていたらしく、『即戦力』として頭角を現していたと聞いている。紗希が去年の春、派遣職員としてこの会社に入った後も、この会社を変えていくのは俺しかいない! と散々言っていた。

 性格が軽いことを別にすれば、高梨は仕事のできる人間だ。それは紗希も認めていた。でも、バリバリ働くことができる高梨が、この会社を辞める。この人手不足と叫ばれている中、更に人がいなくなる。

 残業が多くなると、必然的に家へ帰るのが遅くなる。それがとても辛いということは、紗希にもよくわかっていた。しかも今は、残業する程の仕事量が変わっていないと言うのに、働き方改革の影響で、上司は早く帰ることを強要する。いわゆるジタハラも横行している時代だ。会社では当然、推奨していないが、高梨はおそらく、家にまで仕事を持ち帰っているはずだ。

 紗希が言葉を出さずに俯いていると、

「俺は仕事がきついけど、小早川さんは、生活がきついんじゃないの?」と高梨は言った。「会社のコスト縮減は、結局は人件費の削減。社員だって、残業禁止とか言われて、無理やり帰らされているのに、残業代減って年収下がるし。小早川さんは去年から派遣職員として雇ってもらってるけど、給料上がった? 上がっても、時給数十円とか、そんなもんでしょう? 小早川さんは仕事の出来る方だと俺は勝手に思ってるけど、下手な正社員よりよっぽど生産性あるじゃない」

 突然、痛いところを突いてくる。今年から時給は上がったが、確かに15円だけのアップだった。1日8時間で120円、20日働いて2,400円、1年にして……、計算するのが悲しくなった。

 紗希が肩を落としている中、高梨はカタカタと何かを検索し、「あ、ヒットした」と一人で呟いている。

「『どうして残業が多いのか。』なになに。日本が残業が多いのは……」

 高梨は検索サイトでヒットした記事を読んでいるようだ。そんなことしていないで、早く帰った方がいいのでは。と紗希は思った。でも。

 なぜ、こんなにも残業が多いのか。

 世の中、働き方改革と叫ばれて久しいが、時短、時短と叫ぶことは本当に正しいのか。確かに紗希も疑問に思っていた。それで労働生産性が本当に上がるのか、と。残業が多いのは、他にもっと根本的な理由があって、その理由が何なのか、みんな本当にわかっているのか。

 紗希は自動販売機に向かい、酔い覚ましに120円のペットボトルの清涼飲料水を買って、一気に飲み干した。明日から三連休だ。特に予定もない。今日は高梨の出した議題に少しだけ付き合ってみようと思った。

 

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#「なぜ残業が多いのか」